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爆弾小僧の光と影

  • Satom
  • 2 日前
  • 読了時間: 10分

来月師走を迎えると、ダイナマイト・キッドの没後七年になる。今回は昭和プロレスを振り返るにあたり外せない主役の一人である爆弾小僧の記憶を、思いつくままに記してみたい。


ふと頭に浮かんだのが、平成の世も数年過ぎた頃

当時の全日マットの企画「オルディーズ・バット

グッディーズ」に二回目の参加を果たしたドン・レオ・ジョナサンの腰を、確か日本武道館の控室でキッドがマッサージするシーン。長旅の疲れを癒してもらったジョナサンは笑顔で「やっぱりウィガン(蛇の穴)出身者は違うねえ」とキッドの労をねぎらい、礼を言う。*1) 


イギリス・ウィガン近郊の町ゴルボーンで生まれ育ったキッドだが、ジョナサンが言ったような、いわゆる"蛇の穴"(ビリー・ライレー・ジム)の卒業生ではない。  


十代の初めころのキッド(トミー・ビリントン)は、父親から手ほどきされたボクシングと学校の正科のラグビーに打ち込んでいたが、ひょんなことから近くに住むテッド・ベトレーなる人物からレスリングを習うようになる。


キッドの父親(ビリー・ビリントン)は、炭鉱で働いたりボクサーとして試合に出場したり、大工仕事を請け負ったりと様々な職業を渡り歩いていた。ある時地元の青果商売を営んでいたベトレーの家の工事に通っていた時、彼が元レスラーであったことを知り、息子のコーチの話しを持ちかけた、というのがきっかけのようである。


レスリングの基礎的なトレーニングを積んだキッドは、ある日ベトレーの計らいでビリー・ライレー・ジムに顔を出すが、ここで居並ぶベテランの猛者たちからクシャクシャにされてしまう*2)


ベトレーはキッド以前に世話をしていたスティーブ・ライトもやはりライレー・ジムに連れて行き

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術を習得させたが、その際は手荒に扱われることはなかったという。 


ライトとキッドの待遇の差はどこからきたか? キッドの態度が、教えを乞う生徒にしては礼を欠いており、蛇の穴の師範代たちの不興をかったとする説があるが、もう一つピンとこない。年少の頃から負けん気は人一倍強かったビリントン少年だが、ベトレーに対しては長幼の序を弁えており有名なライレー・ジムを訪問して、いきなり突っ張った態度をとるようには思えないからである。


推測に過ぎないが、キッド受難の原因は本人というよりも、ベトレーにあったのではないかという気がする。というのも、後年ベトレーが、ライトの"蛇の穴 デビュー"の様子について「若い彼(ライト)が 名高いマスター達を相手に互角以上に闘った」と武勇伝の如く語るテープが存在する からである。*3)


ベトレー自身はライレー・ジム出身ではなく、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術を習得

してはいなかったという。そんな彼の弟子が、並居る蛇の穴の師範代を凌駕したという軽口を見過ごすわけにはいかない…。

 キッドがライトのように「お客様」として扱われなかったのはこんな事情からあったのではないか? 勿論真相は藪の中である。


ボロボロになったキッドを心配したベトレーは、修行先を変更、結局キッドはビリー・チェンバーズ(ライレー・ジム出身でジャック・ファロンのリングネームで活動した聾唖のレスラー)のジムに通い、本格的な技術を学ぶことになった。


いずれにしても、キャリアの最初期に"蛇の穴"で受けた苦い体験は、キッドにとって忘れられない「通過儀礼」として印象付けられたに違いない。そこで得た教訓は「レスラーは何よりも強くなければならない」という強烈な信条としてキッドの心身に刷り込まれたのではないか。


イギリス時代のキッドの旧い映像。試合は1976年10月30日、ジョイント・プロモーション主催の興行におけるアラン・"ストロングマン"デニソン戦。前年     9月にデビューしたキッドは当時17歳。身体は細く体重は75kgをきっているのではないかと思われる。全身バネのような軽快な動きで善戦するが、最後はトップロープに喉を直撃し戦闘不能に。デニソンの申し出により、試合の裁定はノーコンテストとなる
イギリス時代のキッドの旧い映像。試合は1976年10月30日、ジョイント・プロモーション主催の興行におけるアラン・"ストロングマン"デニソン戦。前年 9月にデビューしたキッドは当時17歳。身体は細く体重は75kgをきっているのではないかと思われる。全身バネのような軽快な動きで善戦するが、最後はトップロープに喉を直撃し戦闘不能に。デニソンの申し出により、試合の裁定はノーコンテストとなる

プロデビューから約二年を経た1977年の秋頃、キッドに一つの転機が巡ってきた。カナダから 渡英中だったハート家の次男ブルースに見出され半年後の1978年4月にカルガリー地区へ転戦したキッドはスピード感に溢れたハードな試合ぶりでめきめき頭角を現す。


カルガリーに登場後、英連邦ジュニアヘビー級ベルトを手中にしたキッド。マネジャーとしてセコンドにつくのは国際に来日経験のある英国人レスラー、ジョン・フォーリー。ライレージム出身のフォーリーはスパーリングでカール・ゴッチを破ったこともある実力者。この当時はスチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリングでポリスマン的存在だった
カルガリーに登場後、英連邦ジュニアヘビー級ベルトを手中にしたキッド。マネジャーとしてセコンドにつくのは国際に来日経験のある英国人レスラー、ジョン・フォーリー。ライレージム出身のフォーリーはスパーリングでカール・ゴッチを破ったこともある実力者。この当時はスチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリングでポリスマン的存在だった

カルガリー・マット登場から三ヶ月後の7月、大きなチャンスが舞い込んでくる。毎年夏に同地で開催されるフェスティバル、カルガリー・スタンピードに合わせ、NWAヘビー級王者ハーリー・レイス、同ジュニア・ヘビー級王者ネルソン・ロイヤルが約一週間の日程で招聘されたのである。


19歳のキッドは、この機会にアルバータ州各地でロイヤルのジュニア・ヘビー級のベルトに挑戦するが、以降のキャリアを左右するほどのインパクトを与えたのはレイスとの出会いだった。


NWA世界王座にカムバックして二年目、チャンピオンとして全米、カナダ、メキシコ、日本を飛び回っていた35歳のレイスにとって、キッドは文字通り「小僧」に近い存在であっただろう。しかしこの小僧は両腕にタトゥーを入れた世界王者に向かって対等に口をきいたというから凄い。


1978年、カルガリー・スタンピードにおけるレイスとの対面。北米大陸到着早々にミスター・プロレスとの邂逅を果たしたことは、その後のキッドのプロ人生に大きな影響を与えた。両者に共通するのは、 "この世界、舐められたちゃあイケねえ"精神である
1978年、カルガリー・スタンピードにおけるレイスとの対面。北米大陸到着早々にミスター・プロレスとの邂逅を果たしたことは、その後のキッドのプロ人生に大きな影響を与えた。両者に共通するのは、 "この世界、舐められたちゃあイケねえ"精神である

同じ車でサーキット中、ハンドルを握るレイスに母国のアクセントをからかわれたキッドは一歩も引かず言い返す。気色ばんだレイスがハイウェイ上で急停車、路上でキッドに詰め寄った時には、同乗していたレスラー仲間が総出で二人を分けようとしたらしい。しかしこれがきっかけでレイスはキッドの物怖じしない態度を大いに気に入り、以降は年の差に関わらず肝胆相照らす仲になったという。


後年WWFでもサーキットを共にしたレイスとキッド。当時まだ20代だったキッドが醸しだすオーラと佇まいは「キング」と並んでも全く見劣りしない。二人はプライベートでも仲が良く、レイスがキッドの家に何度も泊まりに来るほどの親密な間柄だった
後年WWFでもサーキットを共にしたレイスとキッド。当時まだ20代だったキッドが醸しだすオーラと佇まいは「キング」と並んでも全く見劣りしない。二人はプライベートでも仲が良く、レイスがキッドの家に何度も泊まりに来るほどの親密な間柄だった

カルガリーに渡って来た頃はタバコを吸わず、酒も控えめで物静かな性格だったキッドだが、レイスの「薫陶」を受けて以来、素ぶりや行動が別人の如く変わっていったと証言するのは、ハート家の七男でキッドより二歳ほど若いロス・ハートである。


十代の頃のキッドを知るレスラー、例えばマーティー・ジョーンズなどは、やはり口数の少ない控室でのキッド像を伝えているが、同様のイメージは1979年7月、国際プロレスに初来日した時のインタビューにも垣間見えていた。当時週刊F紙に掲載された女性インタビュアーとのやり取りを朧げな記憶から振り返ってみたい。


ブロンドで肩にかかるほどの長髪、貴公子然とした風貌が、前年日本で公開された映画「スター・ウォーズ」でルーク・スカイウォーカー役を務めたマーク・ハミルに似ていると言われたキッドは

素直に「サンキュー」と応じるが、周りにたむろしていたオックス・ベーカー、アレックス・スミルノフらヒールのベテラン勢から口々に冷やかされ、言い返せずに閉口する…。


レイスとタメ口をきく強心臓と、シャイで内向的な一面、どちらがキッドの実像に近いのか?この問いかけにさほどの意味はないだろう。プロレスラーに限らず、大抵の人間には二面性(あるいは多面性)が同居しているものである。二つのペルソナが内面で葛藤しつつ、局面次第で異なる顔を

見せる、というのがむしろ普通ではないだろうか


しかし、キッドのように一般人と変わらぬ小柄な身体で、スーパーヘビー級の相手に混じってプロレス界で足跡を残そうとすれば、肉体的な無理は勿論、気持ちの上でも弱気なペルソナは封印し、抑圧せざるを得ないのも又、道理である。その分負けん気の強い方の自我は肥大化し、最後には周囲は勿論、自分自身をも傷つける事態を招きかねない。キッドのレスラー人生の後半に起こったのはまさにそういったケースであったが、それはまだ何年も先の話しである。


初めての日本からカナダに戻った翌月、キッドの未来を拓く新たな展開が起こる。新日プロから、猪木、坂口、藤波の三選手がカルガリーに遠征してきたのだ。


TV朝日のカメラが入った会場(ヴィクトリア・パビリオン)で、猪木はハンセン、坂口はシンと、それぞれ新日マットのスタイルで試合を行った。かつて日プロがLAのオリンピック・オーディトリアムの舞台を借りて、日本の抗争劇の続編を海外決着戦として収録・放映するパターンの再演である。


片や文字通りの初顔合わせとなるキッドと藤波はヘビー級の試合を食う鮮烈な印象を残した。最後はトップロープからジャンプしたキッドを藤波が下からドロップキックで迎撃、更にはリング下にダウンしたキッドにドラゴンロケットで襲いかかり両者リングアウトとなったが、館内は大興奮。この日一番の試合をやってのけたキッドが、翌80年初頭の再来日にあたり、国際ではなく新日のリングに上がったのは、半ば必然的な流れだったと言える。


この二回目の来日では、ライバル藤波のジュニアヘビー級王座二冠制覇なるかというテーマが用意されていた。そのためフロリダ地区からNWAのインターナショナル・ジュニアヘビー級選手権者としてスティーブ・カーン、更に前年夏に藤波とLAで熱戦を展開したスキップ・ヤングも参加するなど、当時としてはジュニアの層が格段に厚いシリーズとして構成されている。その中にあって、新日初参戦のキッドは長髪をバッサリと切ったスキンヘッド姿で、劇的なイメチェンを果たしており、存在感は群を抜いていた。


その凄みがTVを通じてお茶の間に伝わったのは、藤波の持つWWFジュニア・ヘビー級ベルトへの挑戦権を賭けて、スキップ・ヤングと対戦した試合(80年1月25日岡山武道館)である。

この試合の結末を記憶しておられる昭和ファンは多いと思うが、最後はキッドがコーナーポスト最上段からダイビング・ヘッドバットでヤングの額を直撃、スリーカウントを奪う。


 立ち上がってレフェリーに手を挙げられる坊主頭のキッドは能面のように無表情ながら、額からは一筋の鮮血がゆっくり流れていく。確か村松友視氏も、このシーンが非常に心に残ったと書いていたが、日本におけるキッドのイメージを確定したのは、このヤングとの一戦だと言っても過言ではないだろう。*4)


カルガリーに続いて、日本のマットにも大きな礎を築いたキッドは、この時まだ21歳になったばかり。1980年代のプロレスの夜明け、新しい時代はまさにこれから始まろうとしていた。


次回も引き続き、日本と北米におけるキッドの物語りと、その「影」の部分、更に早すぎた落日について綴ってみたい。



*1)この時のキッドは91年暮れの引退から中一年を置き、現役レスラーとしてカムバックを試みていた。サマー・アクション・シリーズの終盤二試合(横浜文体、日本武道館)に試運転出場するも

その後はシリーズ全戦を通して参加することはなく、全日本への登場はこれが最後となった


*2)キッドの自伝"ピュア・ダイナマイト"によると、当時ジムにいたアーニー・ライレー(ビリーの息子)、ビリー・ジョイス、フランシス・サリバンらに容赦なく痛めつけられたという


*3)G-Spirits Vol.51 "師匠テッド・ベトレーが

  語るカミソリファイトの原点"の中で、

  ライトがライレー・ジムを初訪問した際の

  様子を語るテープが紹介・再現されている


  "蛇の穴"における洗礼と、ビリー・チェン

  バーズのジムに通う経緯については、上記

  以外にも、以下先行記事を参照した


・G-Spirits Vol.28 "ダイナマイト・キッドと

 シュート・レスリング" 那嵯涼介

・日本プロレス事件史 Vol.20

 "キッド、13歳の門出' 流 智美    


*4)リング内外のレスラーとしてのイメージ作り

  に関しては、新日の総帥・猪木からも具体的

な助言や要請が出ていたとされる。このアド

  ヴァイスに従ったキッドはクールなイメージ

  を貫き通し、リングを降りてもファンとの 

  交流などはしなかった







 
 
 

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