
超人神話のプロローグ
- Satom
- 8月1日
- 読了時間: 6分
更新日:8月3日
ハルク・ホーガン死去のニュースを見てからまだ一週間しか経っていない。ちょうど一年前の7月米大統領選を数ヶ月後に控えた共和党の党大会に登場し、トランプ候補(当時)の横でTシャツを破き健在ぶりを示していたが…享年71歳。
前回のハンセン、ブロディに続いて連続でニューヨークが舞台となるが、今回はホーガンのMSGデビューの際の話しを中心に記したい。
ホーガンのMSG初登場は1979年12月17日、相手は同年春からWWF(当時)で中堅のポジションにいたテッド・デビアスだった。試合は20分一般勝負で行われ、シュミット流バック・ブリーカーからベア・ハッグでデビアスを捕らえたホーガンがギブアップを奪い、勝利を飾る。

この日は年内最後のMSG定期戦とあって、豪華なカードが目白押し。WWFと提携していた新日プロからも猪木、藤波、坂口、長州の四人が参戦したほか、WWFチャンピオン、ボブ・バックランドに
ボビー・ダンカンが挑戦するタイトルマッチ*1)
更にダスティ・ローデスがハーリー・レイスに挑むNWA世界ヘビー級選手権試合も組まれている。
当日の試合は翌年正月の新春スペシャル特番としてテレビ朝日が録画放送した。レイスの防衛戦を日本テレビ以外で初観戦したのでよく覚えているが、ホーガンの試合については記憶がない。
余談になるが、80年代の前半にTV朝日のワールド・プロレスリング中継の常連となったホーガンのことを、実況席の古館伊知朗アナは、"現代に甦ったネプチューン"と表現していた。下の写真は
ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に展示されている「ネプチューンとトリトン」という作品だが、上に立つネプチューンの彫りの深い風貌は、確かにホーガンを彷彿とさせる。

デビアスがこのMSGでの一戦を回想している動画を観たが、事前にマクマホン・シニアから直々に「ホーガンを売り出したい(のでよろしく頼む」旨のメッセージを受けていた、とコメントしていたのが印象的であった。
この試合を最後に、春以降8ヶ月に及ぶWWFサーキットを切り上げる予定だったデビアスは、マクマホンの意向に添う形で仕事を遂行する。相手のホーガンは自身のMSGデビューで花を持たせてくれたデビアスに対し、長く感謝の念を持ち続けていたという。
MSGのリング上では、マネジャーのブラッシーに付き添われ大物感を醸し出していたホーガンだがこの時点での実戦経験は百数十試合ほどしかなく実質的にはグリーンボーイであった。
一方のデビアスは、年齢こそホーガンとほぼ同じ*2)だが、レスリング一家出身のセンスと試合運びの上手さには若手時代から定評があった。 テキサスで天龍源一郎のデビュー戦の相手を務めたのはホーガン戦から三年遡る1976年だが、その時点で既に「(デビアスに)任せておけば安心」という関係者の信頼感があったことは特筆される
ホーガンと対戦した時点で、デビアスは"NWAの総本山"セントルイスに定期出場して実績を積んでいた。78年の2月にはディック・スレーターを破ってミズーリ・ヘビー級王座にも就いている。又TVマッチでは、タッグながらジャーマン・スープレックスでNWA世界チャンピオンだったハーリー・レイスからピンフォールを奪取、この勢いを駆ってキール・オーディトリアム定期戦で二度に渡ってレイスに挑戦(78年11月、79年4月)するなど、次期NWAチャンピオン候補として着々と地盤を固めていた時期であった。
そのデビアスが、MSG初登場のホーガンにあっさり敗れたのは意外な気もしたが、あとになって振り返ると、この試合の結果が、後年のWWFとNWAの運命を暗示していたようにも思える。
試合の流れを作る、対戦相手を光らせる、といったレスラーとしての技量や器で言えば、当時のデビアスは、粗削りで未完成だったホーガンは勿論WWFチャンピオンだったボブ・バックランドより上だったのではないか。ただし上記の評価基準は多分に「NWA的」であるのも又事実である。
WWFにおけるレスラーの評価は、純然たるリング上での技量や強さよりも、むしろお客を惹きつける個性やカリスマ性、パフォーマンスに重きが置かれていたのは歴然としていた。*3)
ホーガンという原石の中に、ダイヤモンドの輝きを見出していたマクマホン・シニアは、やはり凡百のプロモーターではなかったいうことだろう

この時マクマホン・シニアがリクルートした原石は、五年後の1984年にWWFが全米侵攻を開始する時の大看板となる。その時点でWWFのトップはシニアからマクマホン・ジュニアに交代していたがホーガンのキャリアにも大きな箔がついていた
1980年 新日プロに初来日
1981年 ベビーフェイスとしてAWA転戦
1982年 ロッキー3に出演
1983年 IWGP王座戴冠(初代)
ここまでだけで十分にスター街道を邁進、という感じだが、1980年代後半以降のホーガンはWWFの興隆と相まって、プロレスという枠を半ば以上超える形で、全米規模の知名度を誇るアイコン的存在となる。

今回のホーガン逝去に際して、様々なレスラーが
追悼を発していたが、中にはデビアスのコメントもあった。
「80年代の後半にミリオンダラーマンとして再びWWFに戻ったとき、バックステージで顔を合わせたホーガンは俺に言ってきた。"イッツ・ペイバック・タイム"と。その言葉通り、ホーガンは、昔の
"借り"をきちんと返してくれたよ。彼は口にした約束は守る男だった」

巨きな成功を収めた人物には、毀誉褒貶がついてまわることが多い。ホーガンも例外ではなく、2000年代以降は、その私生活をスキャンダル絡みで報じられるケースが散見されたが、デビアスの抑制の効いたコメントは、人間としてのホーガンの一面を表しているように思う。
長く続いた超人の足跡の中から、スターダムへ踏み出した最初の一段を振り返ることで、心からのお悔やみとしたい。
*1)当時日本では新WWF王者決定戦と報じられた
*2)デビアスとホーガンの誕生月は五か月しか
違わず、日本で言えば同学年である
(ホーガン53年8月、デビアス54年1月)
*3)その後キャリアを積んだホーガンは、1990年
4月レッスルマニアVIで、かつての自分の
ような相手(アルティメット・ウォリアー)
を引っ張って、30分近く試合を作っていたと
いう証言もある(G-Spipits Vol.65、WWF
特集 p12 佐藤昭雄インタビューより)





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