
超獣コンビ@WWWF
- Satom
- 7月7日
- 読了時間: 10分
更新日:7月8日
「超獣コンビ」というネーミングが日本で定着したのはいつ頃だったろうか?
1981年の暮れにスタン・ハンセンが全日本へ電撃移籍を果たし、翌82年春にブルーザー・ブロディとのタッグが日本で初めて実現してからの呼び名であることは間違いなさそうだが、日本テレビの中継(倉持アナ実況)では主に「ミラクルパワーコンビ」と呼ばれていたような気もする。
ということは「超獣コンビ」の方は主に活字で目にしていたのかもしれないが、いずれにしても記憶が曖昧で思い出せない。
今回レビューしたいのは、日本での再合体から5年遡った1976年のハンセンとブロディ。舞台はニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンやボストン・ガーデンなどの大会場を擁する、米国東海岸のメジャー団体WWWFである。
前年(75年)までビル・ワットの仕切るトライステート地区でタッグを組んでいた二人だが、夏にはチームを解消。ハンセンは短期のアマリロを挟んで秋に全日本→年末・年始にかけダラス、ブロディ(フランク・グーディッシュ)は秋にアマリロ→翌76年初めにフロリダと、それぞれ別コースを転戦する。
しかし一年も経たないうちに、二人の縁は期せずして再び繋がる。ここでは、全く異なるルートで東海岸サーキットに参入したハンセン、ブロディが、当地の王者ブルーノ・サンマルチノを相手に頭角を表す経緯について、当時の記事や後年の記述を基に掘り下げようと思う。タッグよりもシングルマッチを主眼に置いていることから、内容が表題とは矛盾するが、ご承知おき願いたい。
先にWWWF入りしたのはハンセンだった。テキサス州東部(BTW)地区サーキットの合間を縫って2月18日、3月9〜10日、3月30〜31日と3度に渡ってペンシルヴァニア州のTVマッチに出場したハンセンは、4月20日からWWWFマットに本格参戦、ケビン・サリバン、ヘイスタック・カルホーンと対戦した後、4月26日にはマディソン・スクウェア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノの持つWWWF王座に挑戦する。

この試合中、旧いファンならよくご存知の大ハプニングが発生する。詳細については、かつてハンセンが流智美さんのインタビューに答えて語っている*1)ので、以下要点を抜粋するとー。
ロープワークの攻防からサンマルチノを抱え上げたハンセンはボディスラムで投げようとしたが「ブルーノが私の肩の上で重心を後ろに移動」
したため、相手が自分の背中越しにマットに着地して後方から反撃してくる、と予測した。
そのまま暫し待つも、反応がなかったため改めてボディスラムにいくが、微妙に間が空いたのと、サンマルチノの重心が後ろにかかったままだったことから「相手の背中を平衡にマットに叩きつける」通常の技にならず、サンマルチノは全体重がかかった状態で脳天から落下する形になり、首の骨を折る重傷を負う。

話しは少し脇に逸れるが、この事故から15年後、ハンセンが日本で英会話教材用のインビューに答え、興味深いコメントを残しているので抜粋してみる。*2)
アットキン(インタビュアー):レスラーにとって
ケガは大問題でしょうね?
ハンセン:そうですね、今回のシリーズでも3名の
レスラーがケガを負いました。皆この
世界に入って5年未満です。最初の数年間
というのは、自分の身体がどこまで耐え
られるかの限界を知らない時期で、大抵
のケガは、そういう時期に起きてしまう
のだと思いますね。
ここでハンセンは、自分自身が負う怪我について語っているが、プロレスにおいては相手に怪我を
させないことが何より重要である。このコメントを裏返せば、キャリアが浅い内は相手の受けの限界や技のタイミングが分からずに、怪我をさせてしまうこともあり得る、ということにもなろう。
事故当時キャリア四年目だったハンセンにとってこの時の教訓は、深く心に刻み込まれたに違いない。WWWFのトップを張っていたサンマルチノが欠場することのインパクトは、ファンの立場から見ても大きいが、観客動員によって当日の収入が左右されるプロレスラーにしてみれば、より切実な意味を持っていたことは明白である。
2000年に出産されたハンセンの自伝「魂のラリアット」には、このアクシデントの前後の話しに多くの頁が割かれている。サーキットに合流したばかりの若手レスラーが絶対的なチャンピオンに怪我を負わせ、長期欠場に追い込んだことで仲間のレスラーの態度は相当冷たかったというが、上記の事情を思えば無理もない。当時のハンセンの立場は相当苦しかったものと想像できる。
ちなみに、ハンセンより約2ヶ月遅れてWWWFのトライアウト(4/20-21 ペンシルバニアでのTVマッチ)に初出場したばかりのブロディは「首折り事件」の当日はMSGに出場していない。その後
更に二回のTVマッチ顔見せ(5/11-12、6/1-2)を経て、ブロディが本格的にWWWFサーキットに合流するのは7月中旬からになる。(それまでの間はアマリロ地区の試合に出場)*3)
「たられば」の話しだが、もし4月26日の事故が起きておらず、サンマルチノが順当に王座を防衛していれば、次回5月17日のMSG定期戦あたりで
ブロディが初挑戦の機会を得ていた可能性も大いにあったはずである。実際には、ハンセンがもたらしたアクシデントのせいで、次に参入予定のブロディに対してはトライアウトの査定がより厳しく、慎重になった節もあるかもしれない。いずれにしても、サンマルチノ-ハンセンの因縁抗争が 予想しない形で展開、長期化したことで、ブロディが少なからず影響(とばっちり)を受けたことは間違いないだろう。
ハンセンに話しを戻す。入院加療中のサンマルチノがビンス・マクマホン(シニア)に連絡をとりハンセンを解雇しないように伝えたというエピソードは美談として伝えられた。元々ハンセンをWWWF入りさせたのはサンマルチノ本人*4)で
あったことから、自らが人選した挑戦者に対し、逆にチャンピオン側が気を遣ったというニュアンスまで感じられる。
勿論、若いレスラーの将来を潰してはならないという、人格者ならではの配慮はあっただろう。 しかし類推になるが、ハンセン擁護の背景には、サンマルチノ自身の「受け」、というよりも自分の「マット捌き」に対する自責の念や、忸怩たる思いも少なからず混じっていたのではないか。
サンマルチノはこの時のハンセン戦で負った首のダメージが大きく、その後は試合数を減らしたが本調子に戻ることなく、数年後に引退したというのが「定説」だが、実際には1971年初めにイワン・コロフに敗れて第一期WWWF王座から転落 した後の数年間、サンマルチノの試合数(シングル)は既に年間100試合未満に急減していた。
1973年暮れにスタン・スタージャックを降して 二度目の王座戴冠を果たした後もフル出場には程遠く、翌74年は86試合出場に留まっている。1975年は112試合と漸く3桁に戻るが、これは同年東部地区に旗揚げした新団体IWAへ対抗すべく、興行の目玉として、マクマホンからの出場要請が増えたためと思われる。いずれにしても、コンスタントに200試合以上をこなしていた全盛期(1963-66年=第一期王座時代前半)に比べればペースダウンは明らかであった。
持病の腰痛に加え、家族との時間を最優先したい個人的事情から、試合数を減らしたいとの希望をプロモーターであるマクマホンに伝え、ニューヨーク、ボストン、地元のピッツバーグなど大都市で開催されるビッグマッチや、全日本プロレスセントルイスといったNWA系のテリトリーに限定出場していたこの時期のサンマルチノ。そのカリスマ性と絶大な人気に裏打ちされた観客動員力が健在であればこその"最恵待遇"であったが、フィジカルなコンディションに関する限り、60年代の充実ぶりには遠く及ばない、というのが実情ではなかったか。

実戦の機会が減れば、当然試合勘も鈍る。前述のハンセンの証言通り、全盛期のサンマルチノであれば、ロープワークからボディスラムに抱えられた時点ですかさず背面に着地し、反撃を加えることは難なく出来たであろう。
加えてハンセンの方にも、相手の受け身に対する過信があったと推測する。73年のデビュー以来、アマリロ、フロリダ、トライステート、全日本、ダラスとNWAのテリトリーで試合経験を積んできたハンセン。その対戦相手やタッグパートナーはいずれも(ヒール、ベビーフェイスを問わず)受けの上手な職人揃いであった。不器用な元フットボーラーが繰り出す粗削りの攻めや技でも、相手の巧妙な受けのお陰で、アクシデントが未然に防がれていた可能性は大いにあったのではないか。
アマリロでのデビュー当初は、カール・フォン・スタイガーやサイクロン・ネグロなどのベテラン勢から、試合中や試合後に「ダメ出し」を含めた有益なアドヴァイスをたくさんもらったという ハンセン。勿論その中にはタブーとされる危険な技についての警告もあったという。
グリーンボーイ時代は先輩の忠告を肝に銘じていたであろうハンセンも、キャリアがまる三年半を超えて、若手の域もそろそろ卒業間近、加えて檜舞台のMSGでインパクトを残したいという気負いが、サンマルチノの試合勘不足と相まって事故につながったというところだろうか。
東部地区の地元紙の一つであるPhiladelphia Inquirerの記者ビリー・ライオン氏は事故の翌年に書かれた署名記事(1977年2月3日付け)の中で「兎角その信憑性が取り沙汰されるプロレスだが実際にこうした事故が起きてみると、少なくともその"危険度"が実証されたことで、信頼回復につながることも否定できない」と持論を述べている
「対一般社会」という意味で、この首折り事件は、1983年の"猪木舌出し失神事件"と同様のインパクトを残したと総括できるかもしれない。
今回はハンセンのWWWF王座初挑戦だけで一杯になってしまった。次回は猪木-アリのスーパーファイトと同時に開催されたサンマルチノのリベンジマッチ、及び "次なる刺客" ブロディのWWWFデビューと王座挑戦について触れたい。
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このペースで年内一杯、全50回で完結、を目処に続けていきたいと思っております。
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Satom
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*1)G-Spirits vol.51 p64 「追悼・ブルーノ・サ
ンマルチノ」
*2)「時事英語研究」誌/研究社 1991年7月号
*3)このWWWF独特の"トライアウト"制度は
二人の試合記録を調べていてはじめて気が
ついた。在籍中のテリトリーを抜け出して
WWWFのTVマッチ出場を何度か繰り返す
ユニークなシステムだが、相手先のプロ
モーターとマクマホンの間で信頼・友好関係
が確立されていることが大前提であったろう
ビリー・グラハム、ボブ・バックランド、キ
ラー・カーンなど、1970年代から80年代にか
けて他地区からWWWF(WWF)に移籍して
くるレスラーについても調べたところ、一様
に、この"トライアウト"プロセスを経ていた
*4)旧友のマイク・パドーシスから紹介を受けた
サンマルチノがマクマホンにハンセンを推薦
して、WWWF参戦が実現した。
(「魂のラリアット」スタン・ハンセンより)





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