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超獣コンビ@WWWF ---後篇

  • Satom
  • 7月18日
  • 読了時間: 10分

前回は、東部のメジャー団体WWWFに初進出したハンセンが、MSGデビュー戦でいきなりサンマルチノの首を負傷させ、長期欠場に追い込んだところまで記した。


サンマルチノ自身の取りなしもあって、同地区からの追放は逃れたハンセンだったが、翌日からはファンのブーイングは勿論、鉄板のベビーフェイスたるサンマルチノの不在により、観客減を懸念するプロモーターのマクマホン、仲間のレスラー達の非難の目に耐えつつ、試練のサーキットを続けることになる。


サンマルチノの復帰戦は、6月25日、ニューヨーク、シェイ・スタジアムにおけるビッグマッチに決定する。当日はモハメッド・アリとアントニオ猪木が合いまみえる世紀の一戦をクローズド・サーキットで中継するほか、スタジアムではアンドレ・ザ・ジャイアントとチャック・ウェップナーの対戦が早々に告知されていた。しかしサンマルチノの負傷が深刻で、当日の出場が不安視されたことからチケットの売れ行きは期待に反して鈍かったという。


当日の観客動員を万全にするためには、絶対的なヒーロー・サンマルチノの参戦は不可欠、そして復帰戦の相手としては必然的にスタン・ハンセンしか考えられない。サンマルチノの6.25復帰は、ビンス・マクマホンの強い要請に押し切られた形で実現した。

猪木-アリ戦はクローズド・サーキット方式により、アンドレ-ウェップナー戦と共に全米で中継されたがそれ以外のカードは都市により異なっていた。左は東海岸(ニューヨーク)版でサンマルチノ対ハンセン、右は西海岸(サンフランシスコ)版でパット・パターソンが登場。いずれのチケットも、通常の倍ほどの価格に設定されており、特別感が溢れている
猪木-アリ戦はクローズド・サーキット方式により、アンドレ-ウェップナー戦と共に全米で中継されたがそれ以外のカードは都市により異なっていた。左は東海岸(ニューヨーク)版でサンマルチノ対ハンセン、右は西海岸(サンフランシスコ)版でパット・パターソンが登場。いずれのチケットも、通常の倍ほどの価格に設定されており、特別感が溢れている

復帰当日のサンマルチノは、骨折した箇所がまだ完全に繋がらない段階での超・強行出場。試合はさすがに短期決戦となり、サンマルチノの打撃の猛攻にハンセンが逃亡し、試合放棄で試合は終了するが、控室に続くダッグアウトに駆け込むまでに通路で待ち構えていたファンからナイフで切りつけられ、腕と脚に3カ所も傷を負っている。


この時ブロディは球場にいたのか? 答えは否である。先回書いた通り、WWWF (WWF)では

ペンシルバニアでのトライアウト(TVマッチ)に複数回出場した上で正式にサーキットに合流するという独自のシステムがあり、この時点でブロディは、まだ本格参戦には至っていない。*1)


ブロディの正式なWWWF デビューは7月13日のTVマッチ。3日後の16日にはハンセンとのタッグでイワン・プトスキー、ケビン・サリバン組を降している。翌17日もブロディ、ハンセン組はサンマルチノ、プトスキー組と対戦、これがブロディとサンマルチノの初顔合わせとなる。


ハンセン、ブロディが揃ってWWWF に在籍していたのは約5ヶ月間(76年7月中旬〜12月中旬)で

この間に19回タッグを組んでいる。決して少なくはない回数だが、同時期のWWWF タッグ王者にヒール・マスクマン・チームのジ・エクスキョースナーズ(キラー・コワルスキー、ビッグ・ジョン・スタッド組)がいたことから、タッグ・タイトル戦線には絡んでいない。 


ハンセン、ブロディ組として最も対戦が多かったのはチーフ・ジェイ・ストロンボーとビリー・ホワイト・ウルフ組で計8試合が組まれている。 テキサス出身の暴れん坊二人と善玉インディアンチームの対決は会場を大いに沸かせたと思われるが、欲を言えば一度くらいはジ・エクスキョースナーズとのヒール・マッチが実現していれば、と思う。

1976年度のレスリング・イヤーブックに掲載されたタイトル・部門別ランキング。WWWF 挑戦者のトップはハンセン、3位にブロディがいる。タッグの1位はWWWF タッグ王座を保持していたマスクド・エクスキョースナーズ。このチームと後の超獣コンビがぶつかっていれば、さぞ見応えがあったろう
1976年度のレスリング・イヤーブックに掲載されたタイトル・部門別ランキング。WWWF 挑戦者のトップはハンセン、3位にブロディがいる。タッグの1位はWWWF タッグ王座を保持していたマスクド・エクスキョースナーズ。このチームと後の超獣コンビがぶつかっていれば、さぞ見応えがあったろう

WWWF 側の目線で言えばハンセン、ブロディ組は余録的な扱いであり、シングル・プレーヤーとしての活動こそが主眼であった。二人のターゲットは勿論、不動の王者・サンマルチノだが、対戦回数で比較するとハンセンが17回、ブロディが10回 とやや開きがある。


理由については後述したいが、やはりハンセンの場合「首折り事件」のインパクトが大きかったとみえて、NYCでの3度の対戦以降も、ボストン、ピッツバーグ、ボルチモア、フィラデルフィアなどの大都市を舞台に何度となくサンマルチノ戦が組まれている。各地区のプロモーター達からの要請が、それだけ多かったということだろう。


この意味では、5年後の1981年、試合中のアクシデントで足を折ったアンドレと「加害者」のキラー・カーンが遺恨試合として全米各地で激突を繰り返したケースの先例であったといえる。

ニューヨークでの完全決着戦となった、8月7日MSG定期戦における金網デスマッチ。王者サンマルチノがハンセンを完膚なきまでにKOしリベンジを遂げる当日の観客数は26,190人(クローズド・サーキット4,102人を含む)と、過去最高の大入りを記録した
ニューヨークでの完全決着戦となった、8月7日MSG定期戦における金網デスマッチ。王者サンマルチノがハンセンを完膚なきまでにKOしリベンジを遂げる当日の観客数は26,190人(クローズド・サーキット4,102人を含む)と、過去最高の大入りを記録した

さて、ハンセンとサンマルチノが金網デスマッチで激突した8月7日のMSGで、ブロディはケビン・サリバンに2分半で圧勝、次回定期戦の挑戦者に 浮上する。前月の本格参戦以来S.D.ジョーンズ、パット・マクギネス、ジョニー・リベラなど格下の相手を一方的に粉砕、強さを誇示してきたブロディだが、その中には、あのホセ・ゴンザレスも含まれていた。ブロディのWWWF 在籍中、ゴンザレスとの試合は少なくとも17回組まれ、全てブロディが勝利しているが、中には10分を超えた試合が5試合あった。一方的な叩き潰しではなく、それなりの攻防があったことが窺える。


7月、8月を通じてのデモンストレーションが奏功し、ブロディは9月4日MSG定期戦のリングで満を持してサンマルチノへの初挑戦を果たす。試合はブロディが一旦サンマルチノからピンフォールを奪うが、自分の足をロープに掛けていたことが判明、判定が覆りサンマルチノの反則勝ちが告げられた。

テキサス・デスマッチルールで行われたブロディとサンマルチノの再戦を告知する1976年10月4日付けDaily News(ニューヨーク市のタウン紙)この日のハンセンはシングル戦でプトスキーと対戦の予定だったが、結局ボルコフと組んでゴリラ・モンスーン、プトスキー組とのタッグに出場し勝利している
テキサス・デスマッチルールで行われたブロディとサンマルチノの再戦を告知する1976年10月4日付けDaily News(ニューヨーク市のタウン紙)この日のハンセンはシングル戦でプトスキーと対戦の予定だったが、結局ボルコフと組んでゴリラ・モンスーン、プトスキー組とのタッグに出場し勝利している

決着戦は一ヶ月後(10月4日)同所で行われ、ブロディの猛攻に耐えたサンマルチノが14分45秒、フォールを奪ってタイトルを防衛した。当日の観客数は19,418人と決して悪くはなかったが、MSGにおけるサンマルチノ-ブロディのマッチメイクはこれをもって終結。以降は年内に3回、翌77年1月に4回、ハンセン同様に東海岸の各地で対戦している。中にはボストン・ガーデン(12月4日)やナッソーコロシアム(1月24日-金網デスマッチ)などの大会場も含まれているが、2月5日ピッツバーグでの一戦を最後に、ブロディはWWWF を離脱してしまう。

ブロディのサンマルチノ挑戦を報じる1977年2月4日付けCourier Post紙。ピッツバーグの会場・スペクトラムで翌5日に行われたこの一戦が、結果としてWWWF における最終試合となる。2日後の7日には電撃的にダラス地区(BTW)に復帰。東部地区から持ち帰ったリングネーム・ブルーザー・ブロディを全米各地で名乗るようになるのはこの時以降である
ブロディのサンマルチノ挑戦を報じる1977年2月4日付けCourier Post紙。ピッツバーグの会場・スペクトラムで翌5日に行われたこの一戦が、結果としてWWWF における最終試合となる。2日後の7日には電撃的にダラス地区(BTW)に復帰。東部地区から持ち帰ったリングネーム・ブルーザー・ブロディを全米各地で名乗るようになるのはこの時以降である

処遇について不満を抱いていたブロディが、ブッカーを務めていたゴリラ・モンスーンと衝突したことが理由とされているが、対戦相手や戦績を見るに、ここまでハンセンとほぼ同程度の扱いを受けていたブロディがWWWF に残留していれば、東部各地区におけるサンマルチノ挑戦の機会は、更に増えていたと思われる。

レスラーのみならず、フロントとしてもWWWF の重鎮的存在だったゴリラ・モンスーン。ハンセン、ブロディ在籍時はサンマルチノ政権を補佐する形でリング上の流れに目を光らせていた。当時は現役としても十分健在で、ハンセン、ブロディと何度も対戦、特に自らが敗れることでブロディの売り出しに大いに貢献する。アリ-猪木戦に先立ちWWWF のリング上でアリに飛行機投げを仕掛けたシーンは有名
レスラーのみならず、フロントとしてもWWWF の重鎮的存在だったゴリラ・モンスーン。ハンセン、ブロディ在籍時はサンマルチノ政権を補佐する形でリング上の流れに目を光らせていた。当時は現役としても十分健在で、ハンセン、ブロディと何度も対戦、特に自らが敗れることでブロディの売り出しに大いに貢献する。アリ-猪木戦に先立ちWWWF のリング上でアリに飛行機投げを仕掛けたシーンは有名

テリトリーに参入してきた時のインパクトに比べ他地区に転出していく時にはひっそりと…というのは珍しいことではないが、初戦の大暴れで強烈な印象を残したハンセンに比べ、ブロディの

WWWF 参戦にやや淡白なイメージがあるのは、このような事情も影響していたのだろう。


淡白と言えば…この時期に行われたブロディ-サンマルチノ戦は今もネットで視聴できる。試合動画を見る限り肩口へのキックなどは思い切って入れてはいるが、ボディスラムは相手がマットに着地するぎりぎりまで両手を添える丁寧さで、後年日本で見せた高い位置で手を離すキングコング・スラムにはほど遠い。


ブロディのボディスラムは、その時々の試合や対戦相手によって「型」が大幅に異なるイメージがあるが、この極端に丁寧なボディスラムは、ハンセン戦の「悪夢」再現を何としても避けたいオフィス側の注文に対し、ブロディが見せた無言の反抗のようにも思える。*2)


首筋、肩口、胸板へのニードロップもこの時代は見せていない。サンマルチノのコンディションを考慮して「自粛」したのか*3)やはりオフィス側の要望によるものかはっきりしないが「らしさ」を発揮できないブロディは上述の通り77年2月の初めにWWWF から離脱、以降は二度と同地区に戻ることはなかった。


一方のハンセンはブロディより二ヶ月ほど早い76年の暮れに、八ヶ月に及んだWWWF でのロングサーキットを終えている。

ハンセンのWWWF 離脱が間近に迫った11月末になっても、東部各地では相変わらず因縁の対決がマッチメイクされていた。以降のハンセンは新日本、ジョージア地区を主戦場に活躍。東部地区への復帰は5年後の1981年に一度だけ実現しているが、その時点のチャンピオンはサンマルチノからビリーグラハムを経てボブ・バックランドに代わっていた
ハンセンのWWWF 離脱が間近に迫った11月末になっても、東部各地では相変わらず因縁の対決がマッチメイクされていた。以降のハンセンは新日本、ジョージア地区を主戦場に活躍。東部地区への復帰は5年後の1981年に一度だけ実現しているが、その時点のチャンピオンはサンマルチノからビリーグラハムを経てボブ・バックランドに代わっていた

WWWF 離脱後の二人の足跡を追うと、ハンセンは1977年の初頭に新日本プロレスの新春黄金シリーズに参加。カリスマ性に溢れた大スターで、かつ、レスラーとしてのタイプはサンマルチノと対照的なアントニオ猪木との試合を経て開眼。 米国ではジョージア地区をホームグラウンドに定めトップレスラーへの階段を着々と昇っていく。


片やブロディは古巣のダラス・テリトリーを拠点にオーストラリア遠征で一層キャリアを深め、翌78年にはNWAの総本山セントルイスでも頭角を表しレギュラーの座を確保。アンドレ・ザ・ジャイアント、ハーリー・レイス、ディック・ザ・ブルーザーといった超一流どころと全米各地で互角以上に戦い、存在感を決定的にした。


不思議な?ことに、ハンセン、ブロディの二人共WWWF 時代について手放しで肯定している印象は受けない。ブロディの場合は前述の理由、ハンセンも自伝「魂のラリアット」の中で、ビンス・マクマホンとの確執?について語っている。


しかし、である。WWWF 参戦が二人のレスラー人生におけるターニング・ポイントとなったことは間違いない。*4)


この1976年は世界のマット界に様々な変化の風が吹いた年であったが、WWWF に限って言えば、ニューヨークという魔都が持つ強力な磁場が作用し、リビング・レジェンドたるサンマルチノの落日と引き換えに後の超獣コンビの台頭を演出したようにも思えてくる。


【参考文献】

・G-Spirits Vol.51 追悼ブルーノ・サンマルチノ

未発表インタビュー p65-69

・プロレス入門/斉藤文彦著 


*1)初めてWWWF のTVマッチ (トライアウト)

  出場のためにフィラデルフィアを訪れた際

 (76年4月)はフロリダ地区から「出張」して

  いたブロディだが、翌々月、最後のトライア

  ウトの直前にはアマリロに戻っている。

   ちなみにこの時期に限っては、マクマホン

 (シニア)に命名されたブルーザー・ブロディ

  と、本名のフランク・グーディッシュの二つ

  の名前を使い分けていた


*2)マッチメークその他待遇面に不満を感じた際

  ブロディには(後年のレックス・ルーガー戦

  の如く)極端な無気力試合を見せるか、逆に

  相手を一方的に叩き潰すなどして、プロモー

  ターに「報復」する傾向があった


*3)コワルスキーを尊敬していたブロディが、

  WWWF 在籍中は遠慮して、コワルスキーの

  得意技であるニードロップは使わなかったと

  いう説もある


*4)ハンセン、ブロディのWWWF 入り直前の

戦績を見ると、以下の相手にいずれも

  敗れている。二人のレスラーとしてのランク

  が、東部地区参戦を機に飛躍的に向上して 

  いることが分かる。


  <ハンセン>

  スコット・ケイシー(3/18アマリロ)

  チャボ・ゲレロ(3/24 サンアントニオ)

  ピーター・メイビア(3/25コーパス・クリス

  テイ)


  <ブロディ>

  ビル・ロビンソン(2〜4月にかけてフロリダ

  地区で8回対戦し6敗。結果不明が2試合)

  ボブ・オートン(シニア)(4/6タンパ)

  クリス・テイラー(5月にテキサスで3回対戦

  し全敗)

ザ・ローマン(ドン・スレットン)(6/17

  アマリロ)

  ペッツ・ワトレー(7/1アマリロ)



  









 
 
 

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