★ドリー・ファンクJrの訃報とジャイアント馬場展開催(京阪百貨店・守口店)
- Toshiyuki Fujii
- 23 時間前
- 読了時間: 6分

2026年8月4日、突然早朝からショッキングなニュースが舞い込んできた。
あの稀代のレスラー、ドリー・ファンク・ジュニア(享年85歳)の訃報である。
4月頃、調子が悪いとは聞いていたが、一旦持ち直したと聞きホッとしていた矢先の悲しい便り。守口へ向かう心中は心の整理も出来ぬまま、複雑な気持ちで昼すぎから夕刻まで私とライレージム京都の松並コーチと今回中心となって、開催に漕ぎつけられた緒方親子の共同作業でなんとかジャイアン馬場展の会場を整えた。
作業中は目の前の展示作業に集中でき、ドリーの死に対し心紛れたが、家に帰ると一気に悲しみが溢れかえってきた。携帯には奥様のマーテイ夫人より”Dory appreciated you so much" とのメッセージを目にして多くの思い出が蘇ってきた。
1969年12月2日、大阪府立体育会館に初めて生観戦したNWA世界ヘビー級選手権試合。王者ドリー・ファンク・ジュニア対挑戦者アントニオ猪木の試合は初対決する超一流の二人が阿吽の呼吸で技を紡ぎ繋ぎあった60分ノーフォールフルタイムのプロレス芸術であり。新しい時代へのヌーヴェルヴァーグ的な試合に魅了されプロレスに虜になってしまった事。
1970年7月30日、朝から暑い日差しがまぶしいかったこの日、ドリー・ファンク・ジュニアが日本のエースであるジャイアント馬場のインター・ナショナルヘビー級選手権試合に挑戦するという注目のカード。

館内は8500人で超満員となった熱気、カラー放送用のライト、そして館内には冷暖房がなく、入口で配布された団扇で仰ぐのみ。
リング上は45度で目玉焼きが焼けると比喩表現されたが、実際試合後、友人とリングを触ったとき思わずアッーと叫んだことが今でも忘れられない。
そんな中、ジャイアント馬場とドリー・ファンクジュニアは52分の激闘を繰りひろげ、1本はドリーのテキサスブロンコ・スープレックスで先取。2本目はジャイアント馬場の32文がドリーに的中しタイとなる。館外は雷が鳴り響き、天井に打ち響く雷雨の音の中、3本目は両者リングアウトとなるが馬場さんは眼もうつろで今でいう熱中症にかかり意識ももうろうとされていたのを目撃。
さらには後日談であるが馬場さんは試合中、あまりにもの苦しさで”お母さん助けてー”と叫んだ程のプロレス生活史上において、最大に過酷な闘いであったと証言されている。後の馬場さんのトークイベントにおいても松並さんは、間違いなく叫んだ事を馬場さん自ら語っていたと証言されている。

当時は、試合が終わると観客は一斉にテレビに映ろうとリングサイドに押し寄せる。当時、中学生だった我々は”ヤングオーオー”とプロレス中継に写り込み翌日友人達に自慢するのが流行っていたから、当然我々も試合後リングサイドに駆け寄ったゆえのリアル目撃証言である。
馬場さんは若手レスラーの手をかり控室に戻ろうとするが、辿り着くことなく道具室に倒れ込むや、若手レスラーがドア、窓を一斉に解放しファンが見ているにもかかわらず、ホーズやバケツで横たわる馬場さんに向け水を放出された。
今回、ジャイアント馬場展のトークイベントにおいて藤波辰爾選手のMCをやらせて頂きましたが、その時の質問をすると藤波選手も自らホースで水をかけたと証言された。
この試合にはさらに後日談があり、全米でフルタイム防衛を重ねてきたスタミナの怪物であるドリーにとっても記憶に残る試合ゆえ、この試合について質問したところ思わぬ答えが返ってきたのである。

当時ドリー29歳、馬場さんが33歳、そしてレフェリーをつとめたのが66歳の沖識名である、あの地獄のようなリングでTシャツを着て裁いていた沖さんも途中から様子がおかしいのを感じたドリーは試合中何度か小さく”Are you OK?" と声かけしたそうだ。
もう少しで時間切れ引き分けという中、逆に52分で終わったことは、本当に試合中にもしアクシデントがあってもおかしくなかったかもしれなく良かったかもしれない。
大阪万博で賑わう浪速の街で行われた伝説的な試合であった。
そして翌年の1971年、待ちに待ったドリー・ファンク・ジュニアとアントニオ猪木のNWAとUNを賭けたダブルタイトマッチを見に大阪府立体育会館に行くと、目の前に”本日世界戦に出場予定のアントオ猪木選手は右輸尿管結石の為入院致しました。悪しからずご了承ください。尚、世界選手権に坂口征二が挑戦いたします。払い戻しは本日何時まで”を目にして思わず号泣してしまった。
藤波選手もこの張り紙を見てすごく不安な気持ちになったとトークイベントでおっしゃいました。そらそうでしょう、アントニオ猪木さんの付き人をしていた藤波さんにとってもこの試合を楽しみにそして日米の2人によるアメリカンスタイルの究極の試合を見る事で師匠から関節的にレスリングの勉強しようという矢先でしたから・・・
後に藤波選手も1988年8月8日、アントニオ猪木さんと60分フルタイムドローの最高の試合を行い、自らのベストバウトと述べられましたが、これも点と線で繋がれたものかもしれませんね。
坂口選手とのNWA世界戦も坂口のベストバウトと呼ばれる程、素晴らしい試合に出会ったことが私の傷ついた心を少し救ってくれた事は間違いありませんでした。
ドリー・ファンク・ジュニアを語る上でやはりNWA王者として戦っていたこの時代はまだ成長過程だったこもしれないが、日本のマットのアメリカンプロレスのすばらしさを伝えれるべき名勝負をのこした最高の時代だったかもしれない。
アントニオ猪木さんも晩年、自らのベストバウトは1969年12月2日の大阪の試合だと発せられている。
そして、アントニオ猪木が日本プロレスを追放され新日本プロレスを立ち上げ、同年ジャイアント馬場さんも全日本プロレスを船出させる。ドリー・ファンク・ジュニアは父シニアが全日本プロレスをバックアップしていたゆえ、父の死後も馬場さんを支えた。

その後もNWAタイトルは失うが1975年のオープン選手権試合頃まではNWA王者の重圧もなくドリーがドリーらしくさらにのびのび戦っていた時期と断言できる。
極論かもしれないが、1977年のあの世間まで驚嘆させたオープンタッグ選手権試合の決勝、悪役のアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組対ザ・ファンクスの試合が大ブレークしそれまで燻っていた弟テリー・ファンクのレスリングスタイルが大ブレーク。
ドリーは皮肉にもテリーの引き立役として個性が無くなってしまった。
この試合を見てプロレスファンになった70年代後半の人が大半を占める中、テンションが下がる自分がいたが、弟思いのドリー自身はこれまで陽の目を見なかったテリーのハードコアの世界感の中における躍動感をみて、自分の立ち位置にも納得し憙を感じていたであろう。

今回のジャイアント馬場展においては、ドリー・ファンク・ジュニアの追悼コーナーも設置することができ、多くのドリー・ファンク・ジュニアのポスターも飾りつけできたことが何よりも嬉しいことであった。改めてジャイアント馬場展開催に感謝し改めてドリー・ファンク・ジュニアを追悼したいと思います。有難うダンク!!





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