
セントルイス興行戦争
- Satom
- 5月16日
- 読了時間: 8分
プロモーターとしての第一歩を踏み出そうとした矢先、第二次世界大戦のお陰で思わぬ足踏みを 余儀なくされたサム・マソニックだったが、終戦に伴い、三年以上にわたった軍務から解放されたのが1945年の秋。すぐさまセントルイスに帰郷し年末には早速キール・オーディトリアムでカムバック興行を敢行している。この辺りの迅速な行動力と手腕はさすがという他はない。

年末興行にあたり、マソニックがレスラーの派遣を頼ったのは、カンザス州のプロモーターだったマックス・ボウマン。*1) 12月5日に開催された大会では全4試合が行われ、3771人の観客を動員した。キャパシティが一万人を超える大会場キールの入場者数としては少ないが、当時のマソニックにしてみれば、何はともあれ開催にこぎつけた事に意義がある、という心境だったのだろう。
メインイベントは、エド・ヴァイラグとロイ・ダンの「元世界王者」同士の対戦。*2)ロイ・ダンは1936年全米アマレス選手権(AAU/フリースタイル)を獲得し、同年のベルリン・オリンピックにも出場、1940年にはプロのリングでルー・テーズを降した実績も持つ実力者だったが、戦争中は殆ど試合の実績がなく農場経営に専念しており、1945年暮れの試合はダンにとって久々の実戦だった。元々セントルイスでは試合実績がなかった事を思えば、上記の動員数もやむを得ないところではある。

地元における「老舗」プロモーションは、20年の興行実績を誇る、マソニックの元上司トム・パックス率いるTom Packs Sport Enterprisesだったが
こちらは看板レスラーのルー・テーズが陸軍の徴兵に応召中も、NWA(アソシエーション)世界チャンピオンであるワイルド・ビル・ロンソンの防衛戦を目玉に1万人前後の好調な観客動員を維持していた。
マソニックもパックス傘下以外の実力派・個性派レスラーを集めて興行を継続*3)するも、多数の一流レスラーを抱え、潤沢な資金をベースにしたパックス派の優位に変化は見られず苦戦が続く。6回目の興行で漸く黒字化を果たしたが、地力の差は埋まらず、このまま興行戦争が続いていればマソニックの敗色は濃厚になっていたと思われる
しかしプロレスの神様はマソニックに味方する。パックスが、投資していた株式市場で35万ドルの大赤字を出し、プロレスの興行権を手放す事になったのだ。売却金は10万ドル。買い手は意外にも陸軍から復員したルー・テーズを筆頭に戦争中驚異的な観客を集めてパックスに貢献したビル・ロンソン、更にカナダのプロモーターだったフランク・タニー、エディ・クインの混成グループだった。以降パックスはサーカスなど他ジャンルの興行に専念する事になり、プロレスの世界から撤退していく。マソニックにとってはまさに天佑ともいえる展開であった。
ではパックスの退場により、マソニックとパックスの後継グループがすんなりと平和裡に矛を収めたかといえば、ことはそう単純には運ばない。
パックスの地盤を引き継いだ新オーナー連はNWA(アソシエーション)世界王座を金看板に地元における興行を継続する一方で、マソニックと融和する姿勢を見せる事はなかった。そこで、冷静に趨勢を認識したマソニックが自陣営の優位を盤石にすべく仕掛けた次なる「爆弾」こそ、他ならぬ「NWA」(アライアンス)結成である。
1948年7月18日アイオワ州ウォータールーにあるホテル・プレジデントに参集した5人のプロモーター、ブッカーは、相互の利益と不可侵を図るべく、予め用意された議題に沿ってミーティングを行った。*4)打ち合わせの結果同意された事項は主に以下のようなものである。
メンバー間で融通し合ったレスラーに関しては、互いにブッキング料の徴収は行わない
反対勢力がメンバーのテリトリーに侵攻してきた際には、他メンバーが一丸となりこれに対抗する
ヘビー級、ジュニア・ヘビー級のチャンピオンを各一名認定する。試合毎の報酬は、当日の入場売上総額(ゲート)の10%とし、これを超えることも、減額されることもないものとする
各チャンピオンは委託金を組織に預けるものとする。委託金の金額はヘビー級チャンピオンが$5,000-、ジュニア・ヘビー級チャンピオン$1,000-とする
チャンピオン二名には、それぞれマネジャーが付くものとし、このコストについては
組織が負担するものとする
上記マネジャーは、チャンピオンが各メンバーのテリトリーを均一にサーキットするよう留意する
当面の会長を本会議で、次回の会議で永代会長を選出するものとする
上記事項の中には、後年のNWA運営に踏襲されているものと、そうでないものが見受けられる。本会議の発起人は、アイオワ州のプロモーターだったピンキー・ジョージだとされているが、実際の「仕切り役」〜ミーティングの主旨や具体的なアジェンダをメンバー間で事前に共有し、当日会議の進行をリードするなど、全体的なコーディネート役を務めるに足る人物は、マソニック以外には見当たらない。
NWA発足の最大の動機は何であったか? 一言で総括すれば「衆の力をもって寡占を制す」という点に尽きるだろう。そして目下のところ対抗すべき最大の競合先は、パックスの地盤を引き継いで同名のNWA(アソシエーション)を運営するテーズ・グループをおいて他になかった。
一方でマソニックは敵陣営のテーズ側に対し、二派合併を打診している。1948年10月にはシカゴにおいて両派が一同に会し条件交渉が行われた*5)
しかしお互いが満足し得る妥協点には至らず交渉は決裂、両派はセントルイスを舞台に更なる興行合戦を展開する。
戦況に明らかな変化が見られたのは1948年11月。
前月両派の交渉が破局に終わった直後であった。
パックス時代からのドル箱スターの一人だった
"野生児"バディ・ロジャースが、マソニック派に電撃移籍したのである。同年5月21日、6月4日とキール・オーディトリアムでビル・ロンソンのNWA(アソシエーション)王座に連続挑戦した後、テキサス地区を経てカリフォルニア州をサーキットしていたロジャースは約半年ぶりにセントルイスにカムバックするのだが、この際選んだのがマソニック派のマットであった。

48年11月26日のキール定期戦は、ロジャース効果により10,176人の満員御礼を達成。マソニックがトム・パックスと袂を分かって以来、初の快挙であった。その後も勢いは止まらず、年が明けての1949年2月4日、同定期戦においてもロジャースとドン・イーグルの対決をメインに10,651人の観客を動員、興行戦争における自陣の優位を確固たるものとする。

このあたりから、セントルイスを舞台に長きに渡って続いた興行戦争は終息の方向に向かう。 程なくして、NWA旧派(アソシエーション)の流れを汲むテーズ陣営が、新興のアライアンス派に吸収される形で二大勢力が合併。ここに第二次大戦後の米マットにおける、一つの大きな流れが決定付けられた。
収束の兆しの見えない興行戦争にピリオドを打つべくマソニックが抜いた"ロジャース引き抜き"という懐刀。後から振り返ってみれば、この一太刀こそ、二十世紀後半を目前にした新たな時代の方向性を拓く一閃であったと総括することができる
"私は特段平和を望んでいるわけではないが、かといって争いを好んでいるのでもない"
興行戦争の最中に、マソニックが盟友たるインディ・プロモーターの一人ジャック・フェッハーに宛てた手紙に書かれた文言であるが、マソニックのビジネス哲学を体現しているように見受けられる。
平和主義者ではないが、徒に好戦的な輩とも異なる。興行の世界で生き残りを賭けたプロモーターとしての現実認識と事業感覚、そして一片の矜持もそこに見え隠れしているように思えてならない
今回はマソニック篇の後半として、全二回でまとめようと思ったが、まだまだ書き残したことが多い。次回をマソニック篇の最終回として、一気にプロモーター引退までの半生を追ってみたい。
*1)初めてNational Wrestling Allianceという名称
で"世界チャンピオン"を認定したプロモータ
ー。カンザス州ウィチタを基盤に活動した。
実兄は、エド・ストラングラー・ルイスの
マネジャーを務めたビリー・サンドゥ
*2)ダンもヴァイラグも、上記"NWA"が認定する
世界選手権を保持していた
*3)この時期マソニックの自主興行に出場した
レスラーには、エド・ルイス、ボビー・ブラ
ンズ、オーヴィル・ブラウン、フレッド・ブ
ラッシー、サンダー・ザボー、ジョージ・
ゴーディエンコらがいる
4)NWA(アライアンス)結成時、実際に現地に
参集したメンバーは以下の通りであった
ピンキー・ジョージ
マックス・クレイトン
ウォーリー・カルボ
オーヴィル・ブラウン
サム・マソニック
"The St. Louis Wrestling War" より
同年同月にはNWA(Alliance)の第二回
会合も同じくシカゴで開催されており、この
機会に時を同じくしてテーズ派同席の下での
交渉が持たれた可能性もある。各々の会合の
日付けが確認できなかったため、真相は不明
【参考文献・サイト・資料】
G-Spipits Vol.57 特集「NWA」
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