★ロス・ハートが日本にやって来た!!

9月始め、ロス・ハートからメールで日本に遊びに行くとの連絡を受ける。初めてお会いしたのは2001年のCAC(カリフラワー・アレイ・クラブ)の会場であった。その後何度かCACに行くに連れお顔をよく見るようになりロスが兄であるブレッド・ハートと一緒に参加された2007年頃からお話するようになり。その後メールで連絡を取りあっていた。



ロスは毎年CACに顔を出されており,いわばCACの重要人物でもある。私は60歳で定年退職してからは1度だけしかCACに行けなかったので久々の再会となる。
取り急ぎ、関西に来られるなら大阪、神戸、奈良、京都と案内しようと思っていたが、その1週間前に「工藤めぐみ40周年記念大会~邪道姫伝説~」にタイガー・ジェット・シンが突如14年ぶりに来日するとなり事前準備がかなり厳しくなってきた。
そんな中、関西プロレスの仲間である菊池さん、足立さん、石塚さんに相談すると関西の名所案内はお任せくださいという嬉しいお言葉を頂き、ほとんどスケジュールと段取りはお任せすることにある。しかも友人の山崎さんが通訳を担当して頂くことになる。
大舟の乗った気持ちで5日間のタイガー・ファミリーのお世話を終え地元に戻ったが結構バテバテの状態だった。
やはり歳には勝てぬものだとひしひしと感じる。
そして初日、新大阪まで車で迎えに行く。無事プラットホームで久々の再会。車で地元甲子園のホテルヒューイットに向かい,ロスは一旦、旅装を解き直ぐに西宮浜のCoral Kitchenでいっしょに夕食をとる。その日はカルガリーはスタンピード・レスリングについて色々とお話聞かせて頂いた。

特筆すべきは、1970年日本プロレスのNWAタッグ・リーグ戦にボブ・エリスとタッグで参加していたフランキー・レインが地方巡業の鳥取で通りかかった地元の女性に対し暴行「性犯罪」を働き逮捕、即国外強制追放になった事件において、そのニュースをカルガリーで知ったカーチス・イヤウケアが彼の行動を恐ろしく非難した話。
ロスが通っていた学校の一年下に、日本で活躍したモンスター・リッパーがいて、ロスとは幼い頃からの友人であったそうだ。日本で活躍する長与千草さんが過密日程と過熱するメディア狂騒曲から逃げるようにカルガリーに来た時、献身的に彼女を現地で支えたのがリッパーだったそうだ。ちなみに1988年10月23日、カルガリー・スタンピード・パビリオンで2人は初代IWA王座決定トーナメント決勝(長与が初代王者)で戦っている。
2日目の朝、晴天で迎える。足立さん,菊池さんらが大阪観光のルートを設定してくださった。

住吉神社前で集合してスタート、本殿から初辰さん、おもかる石、五大力すべてを回り、反橋で記念撮影、そこから路面電車で天王寺のジャンジャン横丁で串カツを食す。

ロスも2度浸けお断りのルールを守り美味しそうに口にする。
そしてロスの第一希望の大阪城へ!その前に大阪城の歴史を知ってもらおうと、友人達が下調べまでしてくれた大阪歴史博物館で開催されている「サムライの見た夢~幻の豊臣大阪城」をVR体験しながら約40分間体感。解説は英語バージョンもありロスもご満悦。

そして待望の大阪城へ登り大阪の街を望んだ。すっかり日も暮れ、城内の屋上ビアガーデンBLUE BIRDS ROOF TOP TERRACE(ブルーバーズルーフトップテラス)で乾杯!!

翌日も天気に恵まれ、京阪電車で京都へ向かう!!カッパカントリー館内、黄桜酒場内で昼食をとり伏見稲荷大社へ向かう、さすが外国人観光客のNo1神社ゆえその込み具合に驚く。何とか境内の三ツ辻まで登り引き返したが、なんとか写真も撮れ、ロス曰くナイス!とのこと。

そこから本日のメインである湯沢館長のプロレス美術館へおじゃまする。所せましと飾っているプロレスグッズや書籍にロスが集中して目を通す姿に連れて来て良かったと胸をなでおろす。
時間が余りにも足らず、館長からロスへ本をプレゼントされた。夜は人気のおばんざいのお店でゆっくり皆で会話を楽しんだ。

いよいよ最終日は私の家にお招きして、CACの写真や国際プロレスの本をみせながらさらに詳しくカルガリー・スタンピードのお話をじっくりお聞きした。
終戦後、ニューヨークで活躍していたスチュ・ハートが母国であるカナダに帰国して1951年にクロンダイク・レスリング(Klondike Wrestling)を設立。同年カルガリーで旗揚げ戦を開催。

そして最も観衆を集めて大会が1969年7月7日に開催されたNWA世界選手権試合、王者ドリー・ファンク・ジュニア対挑戦者ビル・ロビンソン戦だと聞き興味が倍増した。
全米NWA世界王者が年に1度だけ北米最大級の祭典でるカルガリー・スタンピード祭りに合わせて来る大会に地元のエース級選手がその王座に挑戦するのが普通の流れであるのが、何故イギリスはライレージム出身であるCACCの実力者ではあるが新参者のビル・ロビンソンが大抜擢されたのか疑問である。
それは少し遡戻ることになる。1968年2月から、日本において国際プロレスは既にグレート東郷とは縁を切り、アマチュアレスリング協会会長の八田一郎氏の紹介でジョイント・プロモーションのジョージ・レリスコを通じ多くのヨーロッパのレスラーを招きシリーズを開催していた。

1969年、国際ゴールデン・シリーズ(2月25日東京・葛飾区体育館~3月23日浜田市体育館=全10戦)が開催され、ダニー・リンチ、パット・ローチ、デーブ・ラール、アル・ホブマンが初来日、それに既に日本では正統派レスラーとして人気を博していた“人間風車”ビル・ロビンソンが前シリーズから残留参戦した。
キーパーソンはデーブ・ラールである。彼は1968年末に日本から帰国したジョージ・ゴーデイエンコからカナダ・ヘビー級選手権を奪還し、この時ゴーディエンコからロビンソンが日本に残留して活躍していることを聞き来日。ラールの叔父さんは、1940年代の世界ヘビー級チャンピオンのレイ・スチールである。叔父の血を受け継ぎ、世界的に有名なハンナのサイブレス・ヒルに生まれその素質を見出され叔父にカルガリー・レスリングジムに連れていかれた。以降カルガリーを中心にプロレスで活躍していた。身長は178cm、体重114キロとレスラーとじては大型ではないが、レスリングセンスは抜群でラフにも強いレスラーであった。逸話として1968年1月あのスイート・ダデイ・シキをカルガリーの試合においてワンハンド・バック・ブリーカーで失神させ病院送りにした実力者でもある。

そのデーブ・ラールは実際このシリーズの3月16日,西条市立体育館において30分1本勝負で、ビル・ロビンソンと対戦し体固め(20分10秒9)で敗れはしたがビル・ロビンソンの実力と人気を確信し、カルガリー地区のメインエベンターでありプロモーターでもあるデーブはビル・ロビンソンを1969年にカルガリーへ招聘する事に成功する。
1969年6月6日、NWA世界王者になったドリー・ファンク・ジュニアがカルガリーに初登場、
地元の英雄であるアーチ・ザ・ズトンパーの挑戦を受けその実力を見せつけた(反則防衛)。そのセミファイナルとしてビル・ロビンソンはジャック・ベンスと対戦し見事デビュー戦を飾り、両者はいよいよ年に1度の北米最大の祭りであるスタンピード祭りの期間に対戦する事が決まる。
この2人の対戦をみようと、スタンピード大会には最大の観客(7000人)が集い、試合は両者引き分けに終わる。まさに米国の最高峰タイトルであるNWA世界王座を保持するドリーと欧州キャッチレスリング(シュート・レスリング)の最高の使い手であるロビンソンとの試合は幼少のロスの目から見ても最高の試合だったそうだ。

これがビル・ロビンソンとドリー・ファンク・ジュニアの初遭遇でもあり、ドリー・ファンク・ジュニアはこの防衛戦においてビル・ロビンソンから多くの技を盗み習得。テキサス・ブロンコ・スープレックス、ヨーロッパ流エルボー、首に全体重を乗せるネック・ブリーカー他を携え、年末日本に殴り込んだと後述している。

ロビンソンも「ドリーは決して強いというタイプのレスラーでは無かったが、たいへんグッドワーカーだった。テーズ以降のNWAチャンピオンの中では最もチャンピオンらしいというか、チャンピオンとしてのムードを持っていたレスラーであったと思う」と評価
ちなみにこの二人は日本において、1978年12月7日福井市体育館にて1度だけシングルで対戦し30分時間切れで引き分けている。
ここからスタンピード祭りにおいては全盛期を迎えることになり、翌年は再びNWA王者のドリー・ファンク・ジュニアがアブドーラ・ザ・ブッチャーの挑戦を受け、その翌年はレス・ソントンの挑戦を受けるなど盛り上がったそうだ。

その夜は神戸メリケンパークの中国料理 桃花春にて石塚氏の接待でサヨナラパーテイを開催して頂く。
最終日は9時半にホテルにお迎えし、車で関西国際空港へ向かい、次の友人が待つ韓国へと飛び立たれた。
文責:藤井敏之 写真:藤井敏之





ビッグイベントの2連チャン
ほんとにお疲れ様でした
ご交友の広さ深さに敬意を表します