
会長の憂鬱
- Satom
- 5月24日
- 読了時間: 11分
『サム・マソニックにNWA会長の座からお引き取り願い、レスラー出身のフリッツ・フォン・エリックを推挙したのは私たちのグループ(ガイゲル、ファンク一家、レイス、キニスキー、それにクロケット・ジュニアら)だった。マソニックは何事に対しても金を要求し過ぎるというのが、反感を買った理由だった』(「個性豊かなリングガイたち」ジャイアント馬場)
『サムのことは大好きだったし、亡くなってからもずっと尊敬している。しかし、一旦金が絡むと人は普段しないようなことまでやってしまうものだ』(「BRISCO」ジャック・ブリスコ)
日米のトップレスラー二人が、NWAのアイコン的存在であるサム・マソニックに対し、相当辛辣なコメントを残しているのはなぜか?経緯については後ほど述べるとして、まずは四半世紀近くにわたったマソニックの「会長」としてのキャリアを駆け足で追っていきたい。
トム・パックスが業界から撤退し、その後継グループも統合したNWA(アライアンス)は見る間に急成長、結成当初僅か5人だったメンバーは五年後の1953年には40名近くまで膨らんでいた。
しかし好事魔多し…あまりにも早いペースで拡大した組織は、やがて連邦司法省からマークされる存在となる。具体的な「容疑」は独占禁止法への抵触であった。*1)
マソニックは、1950年にピンキー・ジョージからNWA会長職を引き継いだ後、1975年に辞任するまでの大半の期間においてその職務を全うする。*2)どこかの組織にありがちなお飾りのトップではなく、上記の連邦司法省との折衝に加え、NWA世界チャンピオンのブッキングという面倒な実務も、全てマソニックが担当していた。いずれも、対応できる人物が他に見当たらなかったというのが実情であったろう。

独禁法関連での当局のお達しもあり、会員達にはコンプライアンス遵守を呼びかけたマソニックであったが、プロレス興行における「アングル」については、ある程度柔軟かつ寛容な姿勢を見せていた。
1955年、レオ・ノメリーニがサンフランシスコの大会場カウ・パレスでルー・テーズの連勝記録をストップさせた有名な試合の後、一つの「仕掛け」が施されたという。反則絡みなのでテーズの防衛とする本部裁定と、ノメリーニを新王者として認定すべきという声を敢えて対立させ、時期を見て両者が決着戦を行う、というプランである。
実際ノメリーニはテキサス、中西部などホームリングを離れ遠征するお披露目ツアーを行ったが、全国区レベルの集客力には限界があると見做され結局「統一戦」プランはお蔵入りになったというのが真相らしい。*3)
乱立するチャンピオンの統合(による業界全体の正統性の確立)は、NWA結成時のマニフェストの一つであったが、各地のプロモーターの立場としては、タイトルの権威云々よりも、自らのテリトリーにおける興行上のテコ入れにどうしても目が行ってしまう。結果として、少数のプロモーターによる世界王者の独占や、地区限定で独自の世界(又はそれに準ずる)チャンピオンを認定するなどといった行為が、NWAの長い歴史の中で常態化していた時期もあった。
ルールを厳格化し過ぎるとメンバーの反発を買いNWA自体の縮小、弱体化を招きかねない一方で、
会員の横暴を見逃すと、これまた組織の求心力が失われて、バラバラになるリスクがある。このあたりはマニュアル化ができないところで、当局の規制や、ファンの気質やニーズといった趨勢の変化を考慮に入れつつ、是々非々の対応をしていかねばならない。抜群のセンスとバランス感覚が要求される仕事である。
加えて、マソニックの周りにいたのは良き理解者や支援者ばかりではなかった。離合集散や「昨日の友は今日の敵」が当たり前のプロレス界において、真の信頼や友情などなかなか期待できる状況ではなかっただろう。ましてやレスラー出身者が多くを占めるプロモーター集団の中で、調和重視のマネジメントは弱腰と取られかねない。会長として組織全体を率いる立場上、敢えて強面を演じざるを得なかった場面も多々あったと思われる。
結果として、1950年代から60年代にかけ何人かの著名なプロモーターが、マソニックと袂を分つ形でNWAを去って行った。アソシエーションとアライアンス統合の過程から折り合いの悪かったエディ・クイン、会長職にありながら、組織解散の決議を諮ったフレッド・コーラー、NWAに独禁法という「刃」をもたらしたピンキー・ジョージなどがこれに該当する。又NWAメンバーではなかったが、マソニックとバディ・ロジャースの縁を仲介した名物プロモーター、ジャック・フェッファ
ーも、最終的には特定のレスラーを「干した」科によりマソニックから糾弾を受けた。*4)
このあたりは、マソニックが本来の硬骨漢たる一面をのぞかせている感が強い。
その反面、マソニックが組織の強大な力を行使して、対抗勢力(オポジション)潰しをリードした事例もあった。西海岸(LA)、デトロイトなど興行戦争の舞台はいくつか挙げられるが、ここでは1970年代前半にアトランタで繰り広げられた"バトル・フォー(オブ)・アトランタ"に注目したい
かいつまんで言えば、1972年の夏、オーナー兼レスラーであったレイ・ガンケルが試合後に急死した事で、未亡人のアン・ガンケルと共同オーナーだったバディ・フラー、及びフラーに加担したレスター・ウェルチ、エディ・グラハム、ポール・ジョーンズらとの間に勃発した興行戦争である。

二年以上にわたって続いた争いは、最終的にジム・バーネットが両派から興行権を買い取る事で収束するが、この間会長のマソニックは、一貫してNWAの本流、つまりフラーの側を支持、有力レスラーを優先的に派遣する事でアン・ガンケル派に圧力をかけ続けた。
権利関係から言えば、未亡人のアンが夫の遺したテリトリーの興行権を相続するのは正当な行為のはずで、オポジション的な扱いをされるのは不本意極まりないところであったろうが、このあたりはマソニックが組織の論理を最優先した?というところだろうか。かつて「寡占」に対して敢然と反抗したマソニックが、後に組織の力を利用して
個人の活動を封じ込める、という流れには多少の違和感を覚えるが、この辺りが人の世の、一筋縄でいかないところかもしれない。
さて、違和感といえば、冒頭の話しである。なぜ馬場とブリスコが揃って、マソニックに対し非難めいたコメントを出すに至ったか? これはマソニックがNWA会長を務めた時期の最晩年にあたる1974年の暮れに、ジャイアント馬場がブリスコを破って日本人として初めてのNWA世界王者となった大偉業の舞台裏に関するエピソードである。
上述の「BRISCO(口述によるブリスコ自伝)」にはその辺の事情が赤裸々に綴られているので、ご存知の方も多いと思うが、要点を再現すると…
全日本プロレスを旗揚げして二年、馬場はこの年進境著しかった猪木率いるライバル団体・新日本に対して巻き返しを図るべく、NWA王座初戴冠の機会を待望していた。ブッカーのテリー・ファンクを窓口に王者ブリスコと交渉した結果、チャンピオンにとって破格の条件で折り合いがつく。
来日中に馬場とベルトのキャッチボールを行ったブリスコは約束の報酬を受け取り、帰路セントルイスに立ち寄る。空港に隣接した駐車場で待っていたのはマソニックだった。「取り分」の納められた封筒の中身を確かめたあと、怪訝な顔で尋ねるマソニック。
「足りないぞ、残りはどこだ?」
「残り? 何のことだ、サム」
二人の見解の違い…ブリスコは(通常の防衛戦と同じく)日本での総入場料の3%を、会長たるマソニックに対し「世界王者ブッキング料」の名目で
渡したのに対し、マソニックはブリスコが全日本から受け取った「総報酬」〜キャッチボールに対するボーナスを含めた〜の3%を求めたのである。
「結局のところ、私がこの取引をまとめたようなものだ。もっと多くの取り分があって然るべきだろう」
「あんたがまとめた? 馬鹿なことを言うな。馬場と交渉をしたのは俺、リングに上がって骨折り仕事をしたのも俺だ。あんたは俺がはるばる日本に行って留守の間、家でカウチに座ってテレビを観ていただけだろう。通常の試合分のコミッションがあるだけでもありがたいと思え!」
「俺(ブリスコ)は車のドアを叩きつけるように閉めると、後ろを振り返らず乗り継ぎ便の出るターミナルへと向かった。サムはその後どうしたろうか。車の中で暫く今の会話について思い返して、やがて家路についたんだろう。俺の方はといえばこの業界について、もうたくさんだ、という気持ちが抑えきれなくなっていった」
まさに「ブリスコ節」炸裂、といったところだが
この一件については、さすがにマソニックが気の毒に思えて仕方がない。冬のセントルイス空港脇の薄暗い駐車場に停めた車の中で、暫しもの思いにふける姿が目に浮かぶようである。この時の、年老いた会長の胸中を勝手に言葉にすると、次のようになるのではないか。
「NWAという巨きな伽藍を一から作り、内外の敵と戦いつつ組織のステイタスを護る苦労も識らず声高に自らの権利と正義のみを主張する輩ばかりだ。プロモーターしかりレスラーしかり…」
この時点で、長きに渡ったマソニックの会長職の任期は残り一年をきっていた。*5)その心象に ついては推し量るしかないが、辞任に際しては、文字通り「もうたくさん。清々した」という気持ちが大方を占めていたように思われる。
ところで最初の馬場のコメントに戻ると、結局のところ、ブリスコが払い渋ったマソニックの「取り分」は、全日(NTV)が肩代わりした気配が濃厚である。この件については以前小泉悦次氏がGスピリッツ誌に書いておられたが、報酬の受け渡しが行われたのは、馬場がNWAを奪取した翌年の1975年2月、場所は馬場、鶴田組がファンク兄弟からインター・タッグ王座を奪取したサンアントニオか、セントルイスのマソニックの事務所であった公算が極めて高い。

日本プロレスの時代から長く続いたマソニックとのお付き合いはここで一段落となり、その年の暮れに開催されたオープン選手権のリングには、新たに世界チャンピオンのブッキングを担当する事になったジム・バーネットが上がることになる…
ここまで本当に駆け足で、卓越したNWA会長の二十数年にわたる活動を振り返ってきたが、十分に掘り下げられていないところが多々ある。前回の最後に「次はプロモーター引退までを振り返りたい… 」と記したが、会長辞任までが精一杯であった。如何に濃密な会長時代であったか、換言すると、マソニック在任中に如何に多くの「事件」が頻発していたか、という事を改めて実感した次第である。
マソニックには、NWA会長としての任務以外にもセントルイス・マットを仕切る興行師、コーディネーターとしての多彩な顔がある。米国プロレス界におけるセントルイスの独自性、及びマソニックが果たした役割については、是非いつか項を改めて述べてみたいが、前々回から続いたシリーズは、ここで一旦区切りとさせて頂く。
*1)発端はNWAの主要メンバーの一人で初代会長
でもあったピンキー・ジョージが、サニー・
マイヤースに訴えられた事件であった。
ジョージが、「(組織の指令に従わない)好
ましからざる人物 」と判断したマイヤースを
ブラックリストに載せたため、NWAの影響が
及ぶテリトリー全域で仕事ができなくなった
マイヤースは、収入に多大な影響が生じたと
したとして補償を求めた。
訴訟争いは長期化するが、最終的には
ジョージ個人とマイヤースの問題として収斂
し、NWAは顧問弁護士の助言を基に「同意
判決」という落とし所を得て、罪状は否認す
る一方、疑いを受けかねない行状は改めると
いう条件で、辛くも窮地を脱する。
*2)1960年から62年の総会では、フランク・タ
ニー、フレッド・コーラー、カール・サーポ
リスが会長に選出された時期があるが、この
期間中もNWAチャンピオンのブッキングなど
中核的業務はマソニックが継続して手掛けて
いた。
*3)本件と類似したプランは複数あり、その一つ
が、ニ年後の1957年、エドワード・カーペン
ティアによる「疑惑の王座奪取」という形で
実現する。
*4)この時に「干されかけた」レスラーというの
がジョニー・バレンタインであった。マソ
ニックはバレンタインに対して、必要なら司
法省の何某氏に相談するように、と担当者を
紹介している。
*5)1974年夏のNWA総会の席上、マソニックは
次回総会で会長職を降りたい旨を公言して
いた。
【参考文献】
・Introducing the Sam Muchnick Papers:
Correspondences with the Department of
Justice 1956-1964 /Irvin Muchnick *1)*4)
・NWA - The Untold Story of the Monopoly
that strangled Pro Wrestling /Tim Hornbaker
*2)*3)
・G-Spirits Vol.57 特集「NWA」*1)*2)*5)
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