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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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ほぼ
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昇龍出陣の地
扉の写真はもう30年近く前のものだが、テキサス州のHerefordという町にあるブル・バーンという建物の前で撮ったものである。記録によると、1979年の末頃までは週に一度、土曜日の夜にここでプロレスの興行が行われていた。 興行といっても、近郊のアマリロやラボックに比べると出場する選手も少なく、全カードで精々三試合といったところ。第一試合と第二試合がシングルマッチで、メインは一試合目と二試合目に出場した選手同士を組み合わせたタッグマッチというパターンも多かったようである。更にタッグマッチを外して、シングル二試合のみ、という事もあった。いずれの場合も、選手は4人いれば事足りる。 Herefordの中心産業は牧畜で、広大な土地に放牧された牛の数の方が、人口よりも多い可能性すらあるくらい小規模な町(1970年代の人口は1万人台)なので、観客動員もおそらく100〜200人、入っても250人程度だったのではないか。平均入場料が3ドルとして、チケットの売上も大体想像がつく。採算の問題から他の街のように6〜7試合は組めない。 プロレス雑誌や書籍では「ヘレフォード
Satom
2024年12月6日読了時間: 6分


「NWA vs WWA」
プロレス界における世界タイトルの統一戦と言えば、どんな試合が脳裏に浮かぶだろうか。昭和末期の約10年間のスパンで見ると、1978年の1月に行われたハーリー・レイスとスーパースター・ビリー・グラハムの一戦(NWA-WWWF)を皮切りに、レイスとボブ・バックランドの一連の試合(同)、或いは1979年のニック-バックランド戦(AWA-WWF)などが思い出される。 以上の試合は、いずれも当時のゴング誌などで巻頭ページを割いて報道されたので、記憶に留めておられる方も多いと思うが、更に時代を遡って、例えば1940年代以降、全米規模で丹念に記録を探せば、果たしてどのくらいの「統一戦」が出てくるだろうか。見当もつかないが、地元のファン以外には知られていなかった「世紀の一戦」は、恐らく数十試合を下らないような気がする。 前置きが長くなったが、前回(WWA史外伝)の続きに戻りたい。1964年10月5日、アルバカーキで「チャンピオン」フレッド・ブラッシーを破ったドリー・ファンク・ジュニアの初防衛戦の相手は、NWA王者ルー・テーズ、試合は11月9日に同所のシビック・オー
Satom
2024年12月1日読了時間: 3分


★山科銀座商店街“復活祭”参加レポート
令和6年11月17日(日)に開催された山科銀座商店街を1日限定復活させよう❣ “昭和にタイムスリップしよう”というイベントにプロレス美術館・湯沢館長と伝承プロジエクト(ライレージム京都・松並代表&昭和プロレス館・藤井敏之)が協力し、昭和プロレス関連のポスターを会場に貼り当時...
Toshiyuki Fujii
2024年11月24日読了時間: 2分


知られざる日本初登場前のタイガー・ジエット・シンの戦績 Part3: 猪木、シン出世試合は共通の敵“金髪の妖気”ジョニー・バレンタインだった!!
昭和41年11月19日大阪球場でのアントニオ猪木とジョニー・バレンタインの対決 不思議な縁とはこのことだろう、1973年5月新日本プロレスのリング上で初めて相対したアントニオ猪木とタイガー・ジエット・シンのそれまでの過去の歴史を辿れば魔訶不思議な因縁が見えてくるのである。...
Toshiyuki Fujii
2024年11月23日読了時間: 4分


WWA史外伝
前回ご紹介したアルバカーキ版WWA王座の、その後の変遷について記したい。添付の記事は1964年10月3日付けのアルバカーキ・トリビューン紙からの抜粋で、二日後の10月5日に同地で行われる試合カードについて報じたもの。メインはフレッド・ブラッシーがドリー・ファンク・ジュニアの挑戦を受けるWWA選手権試合となっている。 この時点でアルバカーキ版王座はムース・ショーラックからブラッシーへ移動している様子だが、 当の試合を報じた記事は存在するかどうか不明。アルバカーキでマッチメイクされた様子がない事から、この試合自体行われていない公算が強い。 ちなみにカリフォルニアにおける「WWA正史」を見ると、ブラッシーは1964年4月にディック・ザ・ブルーザーに敗れて王座転落、その後はデストロイヤーを経由して、10月の時点のチャンピオンはボブ・エリスであった。(11月にデストロイヤーがエリスに雪辱しカムバック) アルバカーキに話しを戻すと、ブラッシーはファンク・ジュニアとの防衛戦に敗れ、ジュニアがWWA王座戴冠を果たす。そして翌11月にはNWA王者ルー・テーズと、W
Satom
2024年11月23日読了時間: 3分


WWA@アルバカーキ
名物プロモーター、マイク・ロンドンの仕切るニューメキシコ州アルバカーキにおける「外伝」的なプロレス史について、前回に引き続き記していきたい カバーの写真は、1963年2月23日付けアルバカーキ・トリビューン紙に掲載された記事の抜粋である。翌々日の25日シビック・オーディトリアムで行われる試合カードが網羅されているが、記事左下にあるショーヘイ・ババと「WWAチャンピオン」ムース・ショーラックの対戦が目を引く。 ショーラックがこの時期「世界チャンピオン」を名乗っていたという話しは初出ではない。前年(1962年)に日本で「力道山を破り奪取」したというベルトをシカゴではIWA、アルバカーキではWWA王座として使い分けていた様子で、それぞれに該当する試合記録がある。 ショーラックは1962年に日本プロレスが開催した「秋の国際大試合」に初来日、9月から11月にかけ長期に渡り各地を転戦している。開幕戦(9/14)ではスカル・マーフィーが力道山を負傷(右胸鎖関節脱臼)させた試合に乱入、ボディ・プレスをお見舞いし、欠場に追い込んだ。 シリーズ終盤には力道山とのシ
Satom
2024年11月15日読了時間: 3分


シン・伏魔殿
「伏魔殿」という言葉から、何をイメージされるだろうか。私が思い出すのは、昔ゴングや東スポなどで目にした記事(リバイバル含む)である。 不思議とテレビやラジオで「ふくまでん」という 表現を聞いた覚えはない。そのため、自分にとっての「伏魔殿」はあくまで活字、それもプロレス関連の記事と直結している。 「実例」として最初に思い浮かぶのが、1962年、LAのオリンピック・オーディトリアムでブラッシーとのWWA王座防衛戦に臨んだ力道山が、噛みつき攻撃で大流血、ドクターストップでベルトが移動してしまう、というハプニングである。 リアルタイムでこの一戦に触れたわけではないが、後年活字と写真で伝えられた試合の印象は強烈であった。 上記の出来事から「伏魔殿」と言えばまず WWA、そしてブラッシー、会長のジュールス・ストロンボーという名前がセットで出てくるのだが、更なる時を経た現在、インターネット普及により閲覧可能になった過去の試合記録や、内外のプロレス史研究家の皆さんが書かれたたくさんの読みものに触れるにつれ、プロレス界全体が大きな伏魔殿だったなぁという思いを改めて
Satom
2024年11月8日読了時間: 3分


1976年のビル・ロビンソン
日本マットがオープン選手権と猪木-ロビンソン戦で沸いていた1975年の暮れ、海の向こうのアメリカでも大きな変動があった。12月10日、フロリダ州マイアミのコンベンション・ホールでジャック・ブリスコを破ったテリー・ファンクが新チャンピオンの座に就いたのである。兄のジュニアはこの朗報を力道山13回忌記念試合が行われた日本武道館の控室で聞いたという。 新チャンピオンとしてブリスコのスケジュールを引き継いだテリーは、早速翌11日にカンザスシティでジェリー・オーツを相手に初防衛戦。この試合以降、年末まで13試合に出場しているが、全てタイトルマッチである。 一方、11日に蔵前で猪木との名勝負を終えたロビンソンは13日にAWAシカゴでラリー・ヘニングと組んでバリアント兄弟と対戦、16日からフロリダ(CWF)に戻り、同日タンパでザ・デストロイヤーから南部ヘビー級王座を奪取、以降約半年の間、同地区に腰を落ち着ける。 日本遠征で膝を負傷したロビンソンにしてみれば、真冬に北部中心のAWA地区をサーキットするよりも、常夏のフロリダの方がコンディションを整えやすかったこと
Satom
2024年11月1日読了時間: 5分


知られざる日本初登場前のタイガー・ジエット・シンの戦績 Part2:伴侶とともに再びトロントへ
1969年3月、祖国インドに凱旋帰国したシンは郷土の人々より熱烈歓迎を受ける。 1970年2月両親の紹介でお見合いをしたシンは3月には16歳のスクゥジットさんとスピード結婚。そして奥様を伴って再びトロントに足を踏み入れる。前回において既にこの地で輝かしい実績を残しているシン...
Toshiyuki Fujii
2024年10月30日読了時間: 4分


あのハリー・スミス(デイビー・ボーイ・スミス・ジュニア)がライレージム京都へ
ブリティッシュ・ブルドックスとして活躍したダイナマイト・キッドとデイビー・ボーイ・スミス。そのスミスの息子であるハリー・スミス(デイビー・ボーイ・スミス・ジュニア)は幼少時代から新生UWFやリングス、四天王時代の全日本プロレスに興味を持ち、そのレスリングスタイルに多くその影...
Toshiyuki Fujii
2024年10月27日読了時間: 2分


ファンク王国で勃発した全日-新日代理戦争
かつてのゴング誌なら☝️こんな見出しをつけて巻頭カラーで報じていたかもしれない。 1975年の日本マット掉尾を飾ったシリーズと言えば、猪木-ロビンソンの初対決を目玉とした闘魂シリーズとオープン選手権だが、共に来日直前のジュニアとロビンソンのシングル戦のニュースが当時日本のファンの耳に入っていれば、相当な話題を呼んでいたことだろう。 一方意外なことに、ジュニアの地元のアマリロではこの試合を大々的にプロモートした様子が見られない。カバーの新聞広告は1975年11月26日付けAmarillo Globe Timesからの抜粋で、翌27日 アマリロ・スポーツ・アリーナにおける定期戦のカードを紹介しているが、写真で見る限りメインは16選手参加のバトルロイヤルで、ジュニア-ロビンソンのシングル戦はセミファイナルの一つ前、第5試合にラインナップされている。日本のファンの感覚からすれば、両者の対決が鉄板のメインに据えられて然るべきところだが、所変わればファンの嗜好も変わるという事か、何か釈然としない思いが残る。 肝心の試合結果だが、24分47秒、ダブルカウントア
Satom
2024年10月25日読了時間: 4分
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