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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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ほぼ
週刊 昭和プロレス
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アマとプロの垣根
"プロのレスラーなら誰しも、マット上で敵と対峙する勇気がある者に対して、大いなる尊敬の念を持ち合わせている。勝敗は関係ない。 一方でリングに上がる者が、プロレスをアマの延長として捉える事は決してない。それらは全く異なるものだ。プロレスラーも、アマレスラーもそして(確信には至らなくても)ファンもその事を承知している。別にプロがアマを見下すようなこともない。ただ競技(competition)とエキジビションの違いを認識して、それぞれを楽しもうとするだけだ" 上記コメントは、以前何度か紹介したジャック・ブリスコの自伝(口述筆記)「BRISCO」からの抜粋である。 ブリスコは同書の中で、アマチュアの頂点を極めることと、プロの世界でトップに立つことは全く異なるものであると再三強調しているが、一プロレスファンたる私の理解もほぼ同様であった。 その意味で、少なからず驚いたことが二つある。私の認識不足で事実関係をわきまえていなかっただけの事だが、目から鱗の思いであった。 一つは、永年テレビ朝日のプロレス中継「ワールド・プロレスリング」を担当されていた往年の名ア
Satom
2025年6月21日読了時間: 5分


アメリカン・ドリームの原像と原罪
1970年代後半から80年代前半にかけて、米国内で最高の人気を誇ったレスラーは誰か? 当時リアルタイムで雑誌、テレビなどを見ていた世代であれば、割と迷わずに答えるような気がする。出てくる名前は、やはりダスティ・ローデスだろう。 一世代前の超人気レスラー、ブルーノ・サンマルチノがイタリア系アメリカ人からの絶大な支持を得ていたのに比べると、ローデスの場合は特定のエスニック・グループに限らず、幅広い支援層が 広がっていたように思う。 かつてアメリカのプロレス雑誌にはレーティングス欄が設けられていた。各タイトルへのコンテンダーをはじめ、人気・不人気が一目瞭然となるなかで、ローデスは常に人気部門の上位を占めていた。上は1977年、下は1983年のレーティングスより抜粋 1960年代末のデビュー以降数年間は、ディック・マードックとのテキサス・アウトローズに見られるようなヒール役が定番だったローデスだったが転機となったのは1974年5月14日、フロリダ州タンパで行われたタッグマッチだった。 プロモーターのエディ・グラハムと息子マイクの親子チームと対戦したローデ
Satom
2025年6月15日読了時間: 6分


パパは喧嘩屋&シューター
今年のWWE 殿堂入りメンバーに、ドリー・ファンク・シニアがジャイアント・カマラ、イワン・コロフと共に選出された。ファンク兄弟は揃って2009年に栄誉を受けており、息子達から16年遅れての快挙となる。セレモニーの様子は動画で配信され、会場にはテリーの娘さん二人(ステーシィ、ブランディ)も姿を見せていた。テリーが生きていたらさぞ喜んだことだろう。 亡くなったのが1973年6月3日なので、日本風に言えば3年前が「50回忌」だったことになる。自宅の牧場「フライング・メア・ランチ」でレスラー仲間を招いてのバーベキュー・パーティーのあと 余興のレスリングに興じた事が災いして心臓麻痺を起こし、アマリロの病院に向かう車中で息を引き取ったと言われている。 相手は当時アマリロ地区に参戦中だったゴードン・ネルソンとレス・ソントンだったというが、いずれも本物の強さを持ったレスラー。酒の入った状態で、シニアが顔を真っ赤にして、強豪二人を立て続けにねじ伏せた、というのが最後の武勇伝となってしまった。 当時54歳にしてそのような「無茶」をするくらい シニア自身、自らの腕には
Satom
2025年6月6日読了時間: 7分


美獣の五十七日
五月は新緑が本格的になるほか、天候も変動が多い。月初めはまだ肌寒いが、月末には汗ばむ陽気に加え湿度も上がり、梅雨の気配が漂ってくる。 変動といえば、世界最高峰のNWA世界王座を 四年以上にわたり堅守していたドリー・ファンク・ジュニアが敗れる、という波乱のニュースが伝わってきたのは、ちょうど日本の気候が大きく移り変わるこの時期、1973年(昭和48年)5月末の事であった。 新王者は"ハンサム"ハーリー・レイス。ジュニアの初来日時にポリスマンとして同行していた事もあり、ファンク一家の番頭格的な印象が強いが、米国ではジュニアの王者時代に互いの地元(テキサスと、アイオワ・カンザス・ミズーリ三州に跨る中西部)を舞台に何度も対戦、レイスがホームリングのカンザスシティで奪取に成功した時は、16回目の挑戦であった。 タイトル戦における両者のそれまでの対戦成績は、ジュニアの11勝4引き分け。この記録を見る 限り「第一コンテンダー」というイメージは薄いが、地元ではセントラル・ステーツ・ヘビー級のベルトを腰に巻いており、更に前年の1972年に新設されたミズーリ・ヘビ
Satom
2025年5月30日読了時間: 8分


6月7日(土)、アントニオ猪木を語り継ぐ★伝承の会にて書籍販売(当日、舟橋慶一氏の直筆サインプレゼント)のお知らせ。
いよいよ迫ってきました”アントニオ猪木を語り継ぐ伝承の会”関西特別講演会(6月7日< 土曜>・ホテルコンソルト新大阪至)において、大会協力の”ホホホ座浄土寺店”山下店長さんの協力の元、舟橋慶一氏の記事が載る書籍を販売することになりました。関連書籍を購入された方には大会終了後、舟橋さんの直筆サインを頂けるチャンスでもあります。残席は僅かになりましたが、どうぞご参加お待ちしております。
Toshiyuki Fujii
2025年5月30日読了時間: 1分


会長の憂鬱
『サム・マソニックにNWA会長の座からお引き取り願い、レスラー出身のフリッツ・フォン・エリックを推挙したのは私たちのグループ(ガイゲル、ファンク一家、レイス、キニスキー、それにクロケット・ジュニアら)だった。マソニックは何事に対しても金を要求し過ぎるというのが、反感を買った理由だった』(「個性豊かなリングガイたち」ジャイアント馬場) 『サムのことは大好きだったし、亡くなってからもずっと尊敬している。しかし、一旦金が絡むと人は普段しないようなことまでやってしまうものだ』(「BRISCO」ジャック・ブリスコ) 日米のトップレスラー二人が、NWAのアイコン的存在であるサム・マソニックに対し、相当辛辣なコメントを残しているのはなぜか?経緯については後ほど述べるとして、まずは四半世紀近くにわたったマソニックの「会長」としてのキャリアを駆け足で追っていきたい。 トム・パックスが業界から撤退し、その後継グループも統合したNWA(アライアンス)は見る間に急成長、結成当初僅か5人だったメンバーは五年後の1953年には40名近くまで膨らんでいた。...
Satom
2025年5月24日読了時間: 11分


舟橋慶一、大阪初トークイベント(6月7日)★残席僅小!!お早めにお申し込みください.
6月7日(土曜日)、ホテルコンソルト新大阪で開催される舟橋慶一氏による「アントニオ猪木を語り継ぐ伝承の会」関西特別講演会が、後2週間後に迫ってきました。おかげさまで多くの申し込みを頂き残席も僅かになってきました。 いよいよ大阪での初イベントに先がけ、毎日お電話で話している中...
Toshiyuki Fujii
2025年5月23日読了時間: 2分


CAC写真展開催記念★最終日即時販売会実施案内(5月25日<日曜日>)!!
4月26日(土曜日)からスタートしたホホホ座浄土寺店、今年の催し物であるカリフラワー・アレイ・クラブの写真展も5月25日(日曜日)で大盛況のうちに最終日を迎えようとしています。開催記念として今回展示しました写真(A4サイズ)版を額付きで開催記念に販売することが決まりました。...
Toshiyuki Fujii
2025年5月22日読了時間: 1分


セントルイス興行戦争
プロモーターとしての第一歩を踏み出そうとした矢先、第二次世界大戦のお陰で思わぬ足踏みを 余儀なくされたサム・マソニックだったが、終戦に伴い、三年以上にわたった軍務から解放されたのが1945年の秋。すぐさまセントルイスに帰郷し年末には早速キール・オーディトリアムでカムバック興行を敢行している。この辺りの迅速な行動力と手腕はさすがという他はない。 プロモーター・マソニックの再始動を伝える、1945年10月25日付けSt.Louis Post-Dispatch紙。今回はミズーリ州からのライセンスも無事下りた事が記されている。地元での興行戦争が、これだけ微に入り細に入り、公に報道されていた事は意外であった。 年末興行にあたり、マソニックがレスラーの派遣を頼ったのは、カンザス州のプロモーターだったマックス・ボウマン。*1) 12月5日に開催された大会では全4試合が行われ、3771人の観客を動員した。キャパシティが一万人を超える大会場キールの入場者数としては少ないが、当時のマソニックにしてみれば、何はともあれ開催にこぎつけた事に意義がある、という心境だったの
Satom
2025年5月16日読了時間: 8分


アントニオ猪木を語り継ぐ伝承の会 関西特別講演会★特報
開催まで後、3週間と迫ってきました。今回のイベントのテーマであるアントニオ猪木が”若獅子”と呼ばれていた時代から”燃える闘魂”へと移り行く猪木の最盛期の多くの歴史的試合について、その時の猪木の気持ち、何故この試合が実現したのか?などを含めながら舟橋氏が語られるイベントにおい...
Toshiyuki Fujii
2025年5月15日読了時間: 2分


反骨の漢 - サム・マソニック
"プロフェッショナル・レスリングは矛盾に満ちたビジネスだ。悪役は大方好人物である。ストラングラー・ルイスには品格があり、ディック・ザ・ブルーザーもジェントルマンだった。本当に汚い行為というものは、リング上ではなく、得てしてリング外で見られるものだ" 上記は、1981年11月19日付けSt.Louis Post Dispatch紙からの引用である。この記事は、セントルイスで数十年にわたりプロレス興行を主宰し NWA会長も長く務めたサム・マソニックのプロモーター業からの引退に際し書かれたものだが、そのタイトルは"A Guy You Could Trust"---信頼に足る者、となっており、プロレス界における氏の功績、存在感を端的に示している。 この記事を少し読んでみたが、冒頭近くで紹介されているエピソードの時代が1925年、つまり昭和元年にあたっている。今年は"昭和100年"なので、昭和のプロレスファンの方に向けた話しとしても面白いかと思い、今回はレスラーではないがサムマソニックを取り上げてみた。ご興味のある方はお付き合い願いたい。 ビル・マクレラ
Satom
2025年5月9日読了時間: 6分


疾風怒濤の荒法師-後篇
前回は、1960年代のキニスキーをカバーしようとしたが、その足跡が大き過ぎて一回ではとても収まりきらなかった。今回の後篇では、1963年から NWA世界王座戴冠までを一気に振り返ってみたい バディ・ロジャースを独占するフレッド・コーラーの一派に業を煮やしたカール・サーポリス(NWA会長兼アマリロ地区プロモーター)が独自認定した「世界王座」 そのチャンピオンに一定期間君臨したキニスキーだが、このタイトルはその後どういう運命を辿ったのか? 本情報自体は初出ではないが、結論から云うと、1963年3月28日アマリロ・スポーツ・アリーナでその年の初めにデビューしたばかりのルーキー、ドリー・ファンク・ジュニアがキニスキーを破って、新チャンピオンの座に就いている。 前日行われたファンク・ジュニア対キニスキー戦の結果を報じる、1963年3月29日付けAmarillo Globe-Times。一本目、スピニング・トーホールドを仕掛けたジュニアは、レフェリーの警告を無視して技を離さず反則負けを取られるが、ダメージの深いキニスキーはニ、三本目を放棄した、と記されている
Satom
2025年5月2日読了時間: 10分
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