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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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ほぼ
週刊 昭和プロレス
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爆弾小僧の光と影
来月師走を迎えると、ダイナマイト・キッドの没後七年になる。今回は昭和プロレスを振り返るにあたり外せない主役の一人である爆弾小僧の記憶を、思いつくままに記してみたい。 ふと頭に浮かんだのが、平成の世も数年過ぎた頃 当時の全日マットの企画「オルディーズ・バット グッディーズ」に二回目の参加を果たしたドン・レオ・ジョナサンの腰を、確か日本武道館の控室でキッドがマッサージするシーン。長旅の疲れを癒してもらったジョナサンは笑顔で「やっぱりウィガン(蛇の穴)出身者は違うねえ」とキッドの労をねぎらい、礼を言う。*1) イギリス・ウィガン近郊の町ゴルボーンで生まれ育ったキッドだが、ジョナサンが言ったような、いわゆる"蛇の穴"(ビリー・ライレー・ジム)の卒業生ではない。 十代の初めころのキッド(トミー・ビリントン)は、父親から手ほどきされたボクシングと学校の正科のラグビーに打ち込んでいたが、ひょんなことから近くに住むテッド・ベトレーなる人物からレスリングを習うようになる。 キッドの父親(ビリー・ビリントン)は、炭鉱で働いたりボクサーとして試合に出場したり、大
Satom
2025年11月25日読了時間: 10分


超新星🌟の岐路
昭和のプロレスをテーマに、約一年前から私的な思い入れを綴ってきたが、一応年内を目処に全50回で完結したいと思っている。この機会に、まだ登場していないレスラー、試合、事件などについて改めて振り返った結果、ボブ・バックランドのことが頭に浮かんできた。今回は日米における超新星伝説について振り返ってみたい。 1949年生まれのバックランドは、スタン・ハンセン、リック・フレアーと同い年だが、1983年暮れ6年近く保持していたWWF王座から転落して以降目立った活躍がないまま、やがて静かにマット界からフェイドアウトした。そのためかハンセン、フレアーに比べるとレジェンド感は少ないが、全盛期の充実ぶりは際立っている。 バックランドのデビュー戦は、1973年10月22日 ルイジアナ州シュリブポートで行われたロン・スターとの一戦。当初は毎日試合が組まれず、車の中で寝起きする生活だったが、翌年春、アマリロ地区への転戦がきっかけで開眼する。 1974年3月4日、バックランドは同地区のゲートキーパー的存在だったミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)と対戦、勝利を収めた。
Satom
2025年11月16日読了時間: 12分


松並修と伊藤薫の同級生タッグが発進!!
☆前列左からCHICHI, Sareee, 松並コーチ、YuuRi,叶ミク、後列左より今野結菜(練習生)、伊藤薫道場主、志真うた(道場生)の精鋭陣 現在、女子プロレス界で大活躍する“太陽神”Sareee、堀田祐美子主宰のT-HEARTS所属の叶 ミク、現在二人はミク選手の希望でスターダムで開催されている第15回ゴッデス・オブ・スターダム~タッグリーグ戦に参戦し優勝を目指している。そしてプロレスリングEvolution所属の“闘うバービー人形”CHICHI、ガンバレ☆プロレス所属のYuuRi、らの現役バリバリの選手たちが、さらなるレベルアップ、技術アップを自ら望み、伊藤道場・道場主である伊藤薫が企画、実施するイギリス伝統のCACC「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリング」の講習会こぞって参加しそのスキルを磨いている。 伊藤道場での松並コーチによるCACCの講習 コーチとして「ライレージム京都」の松並修を京都からわざわざ呼び、今では2ヵ月に一度の講習会を開いている。 松並コーチは1993年より日本とイギリスを往復し、イギリスのランカシャー地方伝
Toshiyuki Fujii
2025年11月16日読了時間: 4分


待ち続けた夢の対決!!猪木対ニック戦、その点と線 (秘蔵写真綴るNWAタッグリーグ戦大阪大会:昭和45年10月29日)
猪木とニックの夢の対決 ”燃える闘魂”と呼ばれるようになったアントニオ猪木と闘って欲しいレスラーの上位に必ず上がってくるレスラーの一人が“金髪狼”ニック・ボックウィンクル選手であった。 名レスラーであるウォーレン・ボックウィンクルの息子で、少年時代から父のレスリング英才教育を受け、16歳でプロレス入り、そのデビュー戦の相手が全盛時のルー・テーズであった事は有名。当初はハワイとカリフォルニア地区を主戦場にしていたが、1970年にAWA圏に転出し、1972年1月20日にレイ・スチーブンスと組みクラッシャー・リソワスキー&レッド・バスチエン組を破りAWA世界タッグ王者となる、その後、1975年11月8日ミネソタ州セントポールでAWAの帝王バーン・ガニアを破り第28代AWA世界チャンピオンになる。 大阪での控室でのダンデイなニック (撮影:昭和45年11月29日) ちょうどこの時期、アントニオ猪木はプロレスファン夢の対決であった“人間風車”ことビル・ロビンソンと初対決、1対1から時間切れ引き分けでNWF世界王座を防衛する。この試合は今でも昭和プロレスフ
Toshiyuki Fujii
2025年10月24日読了時間: 10分


喧嘩番長・独壇場
ディック・スレーターが亡くなったのは、2018年10月18日なので、今月で早くも丸七年になる。 脊椎の怪我からくる慢性的な痛みに悩まされた上私生活でのスキャンダル的な事件も重なり、その晩年は華やかさとは無縁だった。結果として訃報が大きく取り上げられることもなく、追悼記事を組んだ紙媒体は皆無だったかもしれない。 しかし、かつて昭和のプロレス黄金期を彩った、重要な登場人物の一人であったことに変わりはない。今回は改めて当時の活躍を振り返り、在りし日の「喧嘩番長」を偲びたいと思う。 日本におけるスレーターと言えば、同い年であるジャンボ・鶴田のライバルという印象が強い。第八回チャンピオン・カーニバル決勝戦で、眼帯を付けて熱戦を繰り広げた姿が記憶に残っているが ここではジャイアント馬場絡みの二試合を取り上げてみたい。 まずは昭和49年8月29日後楽園ホールで行われた 第二次サマー・アクション・シリーズ最終戦におけるタッグマッチ。キラー・カール・コックスと 組んで馬場、デストロイヤー組と対戦した試合であるが、初来日のスレーターは、大ベテラン三人に囲まれても全く
Satom
2025年10月24日読了時間: 8分


墓掘り人の激白
先月刊行された「ローラン・ボック自伝」を読んだ。ドイツでは数年前に発行されていたと聞くが 日本語版は訳者の沢田 智さんが八方手を尽くされた結果、クラウドファウンディングで出版に至ったという。 「原書よりも厚くなった」訳書のボリュームは460ページの超大作。1970年代の西ドイツにおける興行・商習慣などについても詳述されているが 勿論その大半はボック本人に関する内容である。 幼少期の朧げな記憶、生々しい体験が、後の人格形成に色濃く影響を与えていることが明確に示されており、人間・ボックの原点に触れた思いがする一方で、青年期の恋愛、アマ・プロのレスラー時代、結婚生活、事業などに関する様々な出来事がビジネス、プライベートを問わず赤裸々に告白されており、圧倒される思いがした。 今回はこの力作をとば口として、昭和ファンの脳裏にいまだ強烈な印象を残しているボックという存在について振り返りたい。 レスラーとしてのボックの日本初登場は昭和56年7月31日、大阪府臨海スポーツセンターのリングで実現した。木村健吾と対戦したボックは相手に何もさせず、1分35秒で圧勝。.
Satom
2025年10月13日読了時間: 10分


君は全日本女子プロレスで活躍していた“伊藤薫”を知っているか!?
ライレージム京都にて ご存知、今やIWGP女子王座(第5代→2025年10月13日両国国技館にて朱里に敗れる)を獲得し日本の女子プロレス界を牽引する太陽神ことSareee(サリー)のトレーナーであり師匠でもあるのが伊藤薫である。 1989年10月8日、全日本女子プロレスでデビュー(対吉永恵理戦。),今年でデビュー36周年を迎える。 バット吉永、長谷川咲恵、渡辺智子らが同期となる。デビュー後はあまり目立つ存在では無かった。1992年8月15日、同期であるバット吉永と20分1本勝負で対戦、バットの危険極まりない蹴激に圧倒され、浴びせ蹴り2連発で追い込まれたが、得意とするダイビング・フットスタンプで逆転勝利を奪い。ようやく日の目を見る。 伊藤薫デビューの頃 この時、使用したフットスタンプは1991年W★INGプロモーション(1991年12月10日、後楽園ホールで旗揚げ団体)の招 きで“妖怪児”ケビン・サリバン が久々に来日。同試合に全女の協力選手としてゲスト参戦していた伊藤薫が、ケビン・サリバンから直々にこの技の教えを受けて、自らの18番技として使用す
Toshiyuki Fujii
2025年10月13日読了時間: 4分


★昭和のプロレス低迷期はこの時代だと断言できる!!
昭和48年3月3日、近代記念館でグレート小鹿&松岡頑鉄がアジア・タッグ王者になる。 すでに新春チャンピオンシリーズの日程とタイトルマッチが決まっていた昭和47年の新春 、1月5日の名古屋大会(名古屋・愛知県体育館)と1月6日の大阪大会(大阪府立体育会館)に特別参戦として現NWA認定USヘビー級チャンピオンの”黒い魔人”ボボ・ブラジルと現WWWFヘビー級チャンピオンの”魔豹”ペドロ・モラレスが来日し、名古屋ではペドロ・モラレスがアントニオ猪木のUN王座に挑戦。大阪ではボボ・ブラジルがジャイアント馬場のインター・ナショナル選手権に挑戦することが内定していた。 実際、情報の早いゴング誌ではこの話題が巻頭を飾っておりプロレスファンのお年玉プレゼントになる予定であったが、そのニュース記事を上回るかのように、同誌面の特集記事において「若獅子アントニオ猪木が突如日プロから除名!その全貌を暴く」とういう暗いニュースが年末に舞い込んできたのだ。 前年度末、昭和46年12月9日、大阪府立体育会館前に貼られていた【本日、世界選手権の出場予定のアントニオ
Toshiyuki Fujii
2025年10月8日読了時間: 7分


『超・燃える闘魂アントニオ猪木展』 ご来展のお礼と今後の企画と反省点
★左から湯沢館長、ライレージム京都マネージャー藤井、ライレージム京都松並代表 阪神梅田本店 8階 催事場「超・燃える闘魂アントニオ猪木展」8月8日(金)~8月15日(月)開催するに、IGF(猪木元気工場)のエグゼクティブディレクター宇田川強氏から、今年の猪木イベントにおいて九州、大阪、東京の開催日程が重なる為、大阪のイベントをお任せするとの相談を春頃にお受けした。 相談の上、京都ライレー・ジムの松並代表と藤井マネージャー、そしてプロレス美術館の湯沢館長でタッグを組み企画から展示までを喜んで受理。 当初は展示場の広さや展示できるスペースなど解らぬまま、とにかく関西、大阪で行われた猪木さんの試合を中心にした展示にしようと決め準備をスタートする。 まずはポスター、チケットに関して、これまでは単純に展示してあっただけの会場が多かったので、付加価値としてその日行われたカードやそのシリーズに起こったトピックスをポスターに記載し、さらには関連写真も貼り付けてお客様により良く分かるようしようと作業をスターとした。 さらにはこれまで大阪で行われた名勝負のコーナー、
Toshiyuki Fujii
2025年10月6日読了時間: 5分


「ダラ幹」考
前回の九州山から間が空いてしまったが、再び 日本プロレス時代の話題を取り上げてみたい。 表題の「ダラ幹」は昭和ファンには旧知の言葉で長らくプロレス用語として認知されている。*1) 昭和46年末、日プロの「社内改革」*2)において馬場、猪木らをはじめとするレスラー達が芳の里遠藤幸吉、吉村道明ら経営幹部を糾弾した時に使われた言葉だが、その実情はどうだったのか? 近年は当時の状況に関して、新たな証言や解釈も 明らかになってきた。力道山の逝去に伴い、急遽始動した「トロイカ体制(上記三人に豊登を加えた四幹部)」の発足まで遡り、その功罪について改めて見直すには良い機会かもしれない。 トロイカ体制誕生に至る経緯については、複数の説がある*3)が、当時の流れを記録した報道を 照会すると、力道山の死の翌日に営まれた仮通夜の席で、新体制の構想が早くも語られている。 その背景には、グレート東郷による日プロ乗っ取りを警戒した四人が東郷排斥に向け一致団結した事情(動機)があったと見るのが妥当だろう。 事実、トロイカ体制発足後の初動は二点に集約 された。東郷の放遂と(第二次
Satom
2025年10月3日読了時間: 16分


九州山とは何か
日本のプロレス史を紐解く上で、重要な人物、鍵となる人物は数多くいる(いた)。勿論その多くは他界しており、今、その貴重な証言をきくことは叶わない。中には、生前インタビューに応えて興味深いエピソードを披露してくれた例もあるが反対にメディアへの露出が極端に限られていたケースも少なくない。 後者の代表の一人が、九州山ではないだろうか。旧くからの書物などで、度々その姿を見てはいるのだが、意外と本人について書かれた読みものやインタビュー記事に触れた記憶はない。そこで、黎明期の日本プロレス界における氏の立ち位置や役割を自分なりに掘り下げ、その存在の何たるかについて一考したいと思う。 九州山が角界出身であることは、その名前からもオールド・ファンの方は先刻ご承知とは思うが、昭和五年から二十年まで約15年間の力士生活で 最高位は小結。無双の横綱双葉山をはじめ玉錦、羽黒山など歴代の横綱を破る殊勲の星を挙げて いる。 昭和十四年から十六年まで二年にわたり現役生活を中断、陸軍兵士として中国大陸に渡っていたが力士としてまさに最盛期を迎えようという時期のブランクは何とも惜しま
Satom
2025年9月12日読了時間: 10分


荒馬の"蹄鉄"
"テリー・ファンクのシューズは、私が見ても惚れぼれするほど素晴らしいものです。あの無造作で洒落っ気のない人のようですが、かけるべきところにはきちんと金をかけていますね" 上記コメントの主は、かつて国内外の一流レスラ ーのリングシューズ作りを広く担っていた職人、杉本常次郎さんである。確か月刊プロレスの1979年1月号の記事で目にしたように思うが、元資料が手元になくて心許ない。杉本さんの下のお名前ももしかしたら違っていたかも…。 テリーが逝って早くも二年が経過し、日本でいう三回忌が巡ってきた。そこで全盛期のスーパーヒーローの足下を支えたシューズを振り返る事でありし日のテキサスブロンコを偲びたいと思う。 (ブロンコは人に調教されていない暴れ馬なので表題の「蹄鉄」は本来ならばふさわしくないが) 杉本さんが仰ったテリーのシューズはどれなのか写真が掲載されていなかったので特定しかねるが おそらくこれだろう、と思う候補は二足ある。 左はNWA世界チャンピオン時代に多用した3色の エナメルシューズ。右は77年のオープン・タッグで初お目見えし、その後も四年近く履い
Satom
2025年8月29日読了時間: 7分
お問い合わせ先
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Eメール: doryfunkjr69@gmail.com
事務局
TEL: (075)285-2403 (WWPクラブ)
〒607-8341 京都市山科区西野今屋敷町27-6
Eメール: rilygymkyoto@gmail.com
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